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5月

光を、受け入れるのかもしれない。  R.D.レイン『引き裂かれた自己:狂気の現象学』天野 衛 ちくま学芸文庫 2017.1   祈りのことばは街角を街にする。   海は新しい形のものに思いがけず出会うと、 我を忘れて急いでそれを知りたがり、 把握しようと努力するのだが、 謎めいた法則によって定められた一定の境界を超える恐れが出てく ると途中で引きあげる羽目になるのだった。 スタニスワフ・レム『ソラリス』沼野 充義 ハヤカワ文庫SF 2015.4   記述できないものは、けっして、理解できない。 理解ということばに準ずる状態に至るには、 ことばが不可欠なのである。 みんな知りたい。 わたしたちは知るために生まれてきたのだ。 知れば、理解しうる。呑みこみ、呑みこまれる。 一体になれる。   なにもない場所(たとえばくらやみや永遠のなか)でも、「 知りたい」と思えるのだろうか。 まず、あって、あるそれを知りたいと思うのではないか。 いまいちど、ひとであることに、生きることに、区切りをつけて、 「ある」とだけ思ってはならないだろうか。   知るまえに、触れるまえに、見るまえに、くらやみのなかで、「 ある」、それだけをよろこびたい。 あなたを知らずに、あなたがあることを、祝福したい。  

6月

いま、どこも痛くない。 なんと幸福なのだろう。 あなたのしあわせをのぞみたい。   へんてこってさ、あつまってくるもんなんだよ。 あつまらなくっちゃ、生きてけないって、そうおもってさ。 へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。 ひとりで生きてくためにさ、へんてこは、 それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない。 それがつまり、へんてこさに誇りをもっていられる、 たったひとつの方法だから。 いしい しんじ『麦ふみクーツェ』新潮文庫 2005.7

7月

記述せよ。   ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたち はこわ 中澤 系『uta0001.txtー中澤系歌集』双風社 2015.5   わたしは数を必要としない。 大切なものはひとつあれば充分だ。 大切なものが増えるということは、わたしのなかの「大切」や「 すき」がばらばらになっていくことにほかならない。 感覚は無限にうまれるものではなく、ひとつの領域としてあり、 領域は対象の数だけ区画されていくのだ。   ばらばらになりたい。 わたしは、うつくしいものに破壊されたい。

8月

生きていれば会えます。 わたしはもう何度も出会えた。 ことばだけがいのちでありうることは、 さびしいことではありません。 だからさいごまで、わたしはことばであるだろう。   すべてのものは外側にあって、私に触れることはできない R.D.レイン『引き裂かれた自己:狂気の現象学』天野 衛 ちくま学芸文庫 2017.1   わたしはなしえただろうか 真空を わたしはかたれただろうか 物語を   ここまでを、わたしのことばとする ここまでを、わたしのものがたりとする  

10月

生きていかれません わかっています ことばがよめません わかっています まぶしくて、くるしくて、さびしくて、 わかって、わかって、わかって、 ねえ、いるの はい、います 本を読んでください ぼくはだれ 問いかける勇気はあるか あなたはだれ しる準備はできているか *   ほとんど想像しがたいことに思えたが、 何もかもが徐々に変化を重ね、 いまや世界だけで十分になっていたのである。 ポール・オースター『ムーン・パレス』柴田 元幸 新潮文庫 1997.9   カフカ作品と『タタール人の砂漠』にある構造( わたしという内部/世界という外部)が、ここにもある。 マーコ・フォッグ(内部)/やみねずみ(外部) そして、交錯。 世界(外部)/ねこ(内部)   (また、どちらにしても、女の子がキーになっていることも、 わすれてはならないだろう)   似てひなるふたつの物語には、ひとつだけ共通する力がある。 それは、だれもがかれらに語る、という力(アクション)だ。 わたしはここに、こうして生きている/生きてきた なんの責務も、権利もなく、かれらは問いかける。 おまえはどこで、どのように生きてきた/生きていく   応えよ。   ちいさいおおきいは、距離のもんだい。 いしい しんじ『麦ふみクーツェ』新潮文庫 2005.7   あなたの声はかならずとどく。

11月

翻訳 かれらのほんとうのことばをしらないままでいることは、 生の物語から目をそらしていることにならないだろうか。 原文を読むのに必要なのは辞書ではない。 それくらいは、英語教育を受けたわたしたちは知っているだろう。 意味とことばを目に見える糸で結ぶことはできない。 その第一の困難を、小説にする(活字にする) 時点で負っているのだ。 さらに、母国語ではない(生活に使用していない) ことばにある困難に、立ち向かえるだけの 愛はあるか。 ないうちは、翻訳家のてのひらから、ことばを受け取るしかない。 目をとじて、これがことばなのだと、自らにつよくつよく、 言い聞かせて。 隠喩のうみにあっては、 もっともかんたんなことばがわたしたちの目をとらえる。 浮きあがり、光のなかで暗くまたたく。   人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか? 村上 春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫 2010.4   引き算が得意なのは海外文学のようにおもう。 苦手なのではなく、系統として、 日本文学には隠喩が用いられている。 そうすることによって表現しようという試みがあるのだ。 どちらがいいという話ではない。 パンとご飯みたいなものだろう。 月と星、四と七、ワカメとメカブ。 人生は隠喩である、と言ってしまえば、 たしかに楽なのかもしれない。 意味のために、矢印、等号、クレッシェンドを打つ。 いのちには価値を、生には理由を、愛情には背景をあたえる。 これまでの道のりをキャバスにして、わけのわからない色を塗る。 それを「うつくしい」とよぶ。 だって、うつくしいのだから。 わるいことではないのだ。 たいがいの状況、たいがいの関係、ことば、には、 あんがい悪意は根づいていない。 思いのほか、人生は結末ばかり、 数式の答ばかりだ。   ときどき、おもう。 わたしたちは、どこかで、ものがたりでも、 ことばでもないものとして生きなければならない瞬間を、 おろそかにするための文学にしてしまってはいないだろうか、と。 言い訳のための注釈として、用いてしまってはいないだろうか。 なあ、あまえたいかい。 ああ、あまえたいよ。 だが、うらぎりたくはないだろう。 ああ、うらぎりたくはない。 ことばを。 ものがたりを。 ここで生きているわたしを。 大切なものを大切にしていた...

12月

「私は死んでしまえば殺されない」  R.D.レイン『引き裂かれた自己:狂気の現象学』天野 衛 ちくま学芸文庫 2017.1   もうなにひとつ望みはないという絶望が、希望になるとき、 そこにいるのはあなたですか ここにいるのはわたしでしょうか ひとつだけ、言えることがあるとすれば、 わたしたちは生きている、ということ。 生きているかぎり、 わたしたちはいのちであり、こころであり、 ことばでありつづけるしかない。 原子が決めたことなのだ。 わたしになる、と。   パラドックスはえいえんに尾を噛む。   そして、わたしは身にまわされていた彼の両腕をほどき、 わたしたちは手をつないで家のなかにはいって、愛を交わし、 あなたをつくるの。 テッド・チャン『あなたの人生の物語』浅倉 久志・他 ハヤカワ文庫SF 2003.9   ここに完全解がある。 それを知っていながら、わたしたちはなにをしているのだろう。 なにをしていないのだろう。  

1月

くらやみがやってきた こんにちはと言って、むかえてやろう おまえはわたしだ   *   僕はまだここにいる ジェニファー・ニーヴン『 僕の心がずっと求めていた最高に素晴らしいこと』石崎 比呂美 辰巳出版 2016.12   みんな声をもっている ことばをはなしている それは目に見えるし、形もあるし ときにはだれかのこころにとどく 小さな声だとしても あなたは声をもっている     ここには、はなせるひとしかいない     ひとつのことばももたないひとはいない     それが、ここだ   ここ//ここ  

2月

理解が引き金になることがある。 終点のさきに、なにもなかったら? 最大の希望が、あなたを傷つけたら? 理解とは知ることでしかない。 3/4に対する印象がひとそれぞれちがうように、 理解したとしても、そのひとはあなたの心にはならない。 わたしをみて。 叫ぶリスクをわかっているか。 わたしをしって。 終りのあとのことを、考えたことはあるか。 おそらく、だれが想定しているよりも、ずっと、ずっと、 世界は広い。 ひとはひとりでも複数で、ふたりになると数えきれない。 それでも、たにんに救いを求めてはならない。 救いの印象は、あなたの中にしか見つけられないのだ。 理解は救いではない。 あなたの背中を無邪気に押す、こどもの手のようなものなのだ。   *    「おとうさん、お魚はどこへ行ったの。」 「魚かい。魚はこわいところへ行った。」 宮沢 賢治『童話集 風の又三郎 他十八篇』岩波文庫 1967.1   現実はこわいところにある。 たいせつにしまいこんだ心のうち、わたしによく似たものが、 おびえている。   「こわいよ。おとうさん。」 宮沢 賢治『童話集 風の又三郎 他十八篇』岩波文庫 1967.1

3月

  *   そういう私達についての物語は、生そのもののように、 果てしがないように思われた。 堀 辰雄『風立ちぬ・美しい村』新潮文庫 1951.1   わたしはわたしを知りたい。 だから、だれかが書いた百冊ではなく、 あなたが書いた一冊が読みたい。 鏡の城はうつくしいだろう。飽きないだろう。 そこに世界はあるだろう。わたしの外があるだろう。 世界はあなたが手に入れて。 わたしはひとつでいい。 あなたが掲げるひとつの鏡をのぞきこみ、 たったひとりで映るわたしを見つけたい。 わたしは眼がよわいから、そこまででもう、十分だ。

4月

わたしを書き換えてほしい あなたのことばで * 「あなた、ぼくの足を見てらっしゃいますね」 J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎 孝 新潮文庫 1974.12   ひとはみな個人でありたい。わたしでありたい、 ゆいいつでありたい。 生きていくには概念になることだ。 名称のもとで、必要条件をみたし、少年であり、友人であり、 傷つける者であり、悲しむ者であることだ。 そのとき、「わたし」はもういない。 いないと、しかし気がつかないことこそ、ある到達・成功である。 完全なる概念化を望みながら どうしようもなく、「わたし」に魅かれる。 心にうそはつけない。書き換えるしかない。 現実はわたしにしかないのだ。 共通のことばなど、どこにもない。 あなたのことばで、あなたになりたい。  

5月

ひとはことばによって構成される よって、ことばをうしなえば真空になれる 真空はわたしたちをまもる 誠実な庇護者はことば以外でわたしをゆるす 手っ取り早い方法が、だからことばである わたしをうしないたければまず、 わたしがことばにならねばならない わたしがものがたりにならねばならない 生命をかけてことばを綴ることの危険性がここにある。 詩にも似ているが、詩には「詩である」という命綱があり、 小説にはそれがない。 だがほんとうのところ、 業務としての執筆をしている人間は存在しないのではないだろうか 。 わたしたちは彼らの作品を否定することで、 彼らの生命そのものへの否定をしている。 おおきな話ではない。 これはありふれた痛みだ。   それじゃ-中略-わたしはずっと愛し続けてきたことになるわ トルーマン・カポーティ『草の竪琴』大澤 薫 新潮文庫 1993.3   作家という箱を語るのか、物語という箱を語るのか。 そして語るべきことばを、ほんとうに持っているのか。 もしも、甘えたことを言ってよければ、ひとはみんな、 おなじじゃない。だれもがおなじじゃない。 傷つきやすいひともいれば、痛みがわからないひともいる。 わたしはカフカを読んで泣く。 カポーティのことも、こころから読んで、こころから潰して、 こころからいっしょに沈んでゆけそうだとおもっている。 * でも、このごろじゃ、生意気な連中が冷やかしでやって来て、 笑い出すんだからいやになるねーーときどき、私は、 この男の耳が聞こえなくてよかったと思うときがあるよ。 そうでなかったら、あんな連中に笑われたら、この男、 傷ついてしまうよ トルーマン・カポーティ『夜の樹』川本 三郎 新潮文庫 1994.3   カポーティの作品ではじつにさまざまな人物(立場) が目となるが、『夜の樹』や『ミレニアム』『無頭の鷹』 といった「ただのわたし」こそ、もっとも 鮮烈な光を見ることになる。 弱さはときに光であり、 光はときに希望とはとうてい言えぬ生々しい力を持ち得る。   そんなにこわがらなくていいよ--中略--この男、 なにもあんたのことを傷つけたりしないから トルーマン・カポーティ『夜の樹』川本 三郎 新潮文庫 1994.3   かれらの世界において、すれ違うだけの存在にこそ、 なんの容赦も...

6月

てきとうなことばが見つからず、わたしたちは「世界」 などと言ったりする。 わるくはないと思っている。 さあ、明日は、わたしたちの週末だ。 今晩はふたりきり、世界には秘密の夜更かしをしよう。   あの川のむこうーー人々は言うことだろうーーあと十キロも行けば 着くだろう、と。 ところが道はいっこうに終わらない。日は次第に短くなるし、 旅の道連れも次第にまれになっていく、窓辺には生気のない、 青白い顔をした人々が立っていて、首を横に振るだけだ。 ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013.4   人間ではなく、人生を描くこと。 わたしではなく、わたしの人生を生きること。 そのときおこるのは優劣ではない。 呑み込みである。 現実を(人間を、わたしを)排除した、 盤上のゲームがうまれるのだ。   君にも分かっているだろう、この砦には…… みんな望みをつないで居残っているんだ……うまく言えないが、 君にもよく分かっているだろう --中略-- 今ではこうしたことにすっかりなじんでしまって、 それを捨てるとなると、さぞつらい思いをすることだろう。 ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013   それでも夢中で生きているひとは、かわいそうなのだろうか。 かえりみ、あわれみ、笑うことで慰めとするべきだろうか。 わたしにはそれがよくわからない。   それは古い木の板の中にも生命への執拗な愛惜が呼び覚まされる時 なのだ。遠い昔の、幸せな日々には、若々しい熱と力が流れ、 枝からは無数の芽が萌え出ていたのだ。それから、 木は切り倒された。そして春が巡って来た今、ごくかすかに、 生命の脈動が蘇ってきたのだ。 昔は葉や花が、 そして今はそのおぼろな思い出だけが軋み音となって蘇り、 それっきりまた次の年まで眠りにつくのだ。 ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013   自然の美しさだけが(なんて安易なことばだろう)、 かれらを物語にする。いのちにする。 砂漠を待って、えんえんと春をむかえつづける。 そしてまた、冬。   ちょうどその時、雪が降りはじめた、重くて密な、 真冬のような雪だった。まるで信じられないほど、またたく間に、 岩棚の上の砂利は真っ白くなり、そして光は不意になく...

7月

  精神病の従来の「治癒」の多くは、 何らかの理由で患者が再び正気を演技する決心をした、 という事実のうちに存するのだと私は確信する。 R.D.レイン『引き裂かれた自己:狂気の現象学』天野 衛 ちくま学芸文庫2017.1   すくわれたことはありますか。 わたしはある。  

8月

本をよむあなた 本をよまないあなた 山尾 悠子をよみなさい 以上!   *   八月のピアノが調律されているのだ。 カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』村上 春樹 新潮文庫 2016.3   物語はその性質上、つねに内へと向いている。 めりこみ、埋没し、統合されていく。 物語は生きていて、同時に、死につづけている。   永遠の少女を描いた作品が、『悲しみよこんにちは』だとすれば、 マッカラーズが描いたものは、「たったひとりのわたし」である。 ここにも、 世界/わたし の構図がある。   あなたでありわたしである、過去であり未来である。 セシルは少女であり、女であり、エルザもアンナも、 セシルである。 答をしる「少女」は、いくぶん、作りものめいている。 作りものであることは、そうでない場合よりも、 おだやかな流れをあとに残す。 残酷ではない、絶望が足りない、という意味ではない。 二百ページに満たない物語の中で、なんど、かのじょらとともに、 「転換」を経験するだろう。 目も眩むような、という表現があとからあとからついてくる。 だが、そこには、生き抜いて、 これからも生きうる人間のうむ物語には、どうしても、消せない「 跡」があるように思えてならない。 ひかりの跡、汚れていないことばの匂い。 「永遠」をしる住人、かのじょ、かれらに自覚される「永遠」 の色彩。   F・ジャスミンが交われない・属せない現実は、 そこにあるだけでまぶしい。 だからこそ、読まねばならない。 なぜ。 ひかりだけが目を焼いてくれるから。   わたしを調律する八月がやってくる。 世界に呑まれるのは、すでに属している少女ではなく、いまだ「 外」にいるわたしなのである。   「きれいな蝶々だね」と彼は言った。「 みんな中に入ろうとしている」 カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』村上 春樹 新潮文庫 2016.3

9月

わたしはたたかっていない。 熱を出していない。 いま、ここにいて、 ときどき、ぴょんぴょんと跳ねて、 足首をひねってしまうか、 つかれて、 ねむくなるのもいいなとおもっている。 だから、わたしはくるしくないのだ。 これはたたかいではない。 しんぱいはなにもいらない。 ぴょん、ぴょん、 跳ねている。 しらない街で、花が咲いたり、 ひとがうまれたり、 死んだりする。 詩は、「詩」なのだが、 「しらない街」なのだともおもう。 ひとはものがたりだ。 だから、ことばもものがたりだ。 だがそこで、注釈がつく。 詩は詩だ、と。 *   とらえきれないかなしみや、 よろこび、 みえず、ふれられぬ、いのちや、 その終りのことを、 たとえば、ことばにしなくてもいい。 ほうったらかしておいてもいい。 紐づけしてばかりでは、ことばもくるしくなってしまう。 だがここで、ああどうしても、脚注がつく。 世界は言葉だ、と。 *   ゆるされるならいちどだけことばにしておきたい。 わたしは、詩がすきだ。 あなたがすきだ。    わたしはことばを消費しない。 たにんのものも、わたしのものも。 姿勢に優劣などないのだが、 わたしはけっして、 消費してはならないとおもう。 わたしはけっして、 消費しないだろう、えーえんに。 わたしのこころみは、枯渇ではないのだ。 求心でも、もちろんない。 うしなうことで作り出す真空が、 わたしにはどうしても必要なのだ。 まだ、わたしのからだは重い。 まだ、足りない。