11月

翻訳

かれらのほんとうのことばをしらないままでいることは、
生の物語から目をそらしていることにならないだろうか。
原文を読むのに必要なのは辞書ではない。
それくらいは、英語教育を受けたわたしたちは知っているだろう。
意味とことばを目に見える糸で結ぶことはできない。
その第一の困難を、小説にする(活字にする)時点で負っているのだ。
さらに、母国語ではない(生活に使用していない)ことばにある困難に、立ち向かえるだけの
愛はあるか。

ないうちは、翻訳家のてのひらから、ことばを受け取るしかない。
目をとじて、これがことばなのだと、自らにつよくつよく、言い聞かせて。

隠喩のうみにあっては、もっともかんたんなことばがわたしたちの目をとらえる。
浮きあがり、光のなかで暗くまたたく。

 

人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?

村上 春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫 2010.4

 

引き算が得意なのは海外文学のようにおもう。
苦手なのではなく、系統として、日本文学には隠喩が用いられている。
そうすることによって表現しようという試みがあるのだ。
どちらがいいという話ではない。
パンとご飯みたいなものだろう。
月と星、四と七、ワカメとメカブ。

人生は隠喩である、と言ってしまえば、たしかに楽なのかもしれない。
意味のために、矢印、等号、クレッシェンドを打つ。
いのちには価値を、生には理由を、愛情には背景をあたえる。

これまでの道のりをキャバスにして、わけのわからない色を塗る。
それを「うつくしい」とよぶ。

だって、うつくしいのだから。

わるいことではないのだ。
たいがいの状況、たいがいの関係、ことば、には、あんがい悪意は根づいていない。
思いのほか、人生は結末ばかり、
数式の答ばかりだ。

 

ときどき、おもう。
わたしたちは、どこかで、ものがたりでも、ことばでもないものとして生きなければならない瞬間を、おろそかにするための文学にしてしまってはいないだろうか、と。
言い訳のための注釈として、用いてしまってはいないだろうか。

なあ、あまえたいかい。
ああ、あまえたいよ。
だが、うらぎりたくはないだろう。
ああ、うらぎりたくはない。
ことばを。
ものがたりを。

ここで生きているわたしを。

大切なものを大切にしていたいわたしを、うらぎりたくない。

生きなさい。
そのかたわらで、文学をしなさい。

 

 

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