6月

てきとうなことばが見つからず、わたしたちは「世界」などと言ったりする。
わるくはないと思っている。

さあ、明日は、わたしたちの週末だ。

今晩はふたりきり、世界には秘密の夜更かしをしよう。

 

あの川のむこうーー人々は言うことだろうーーあと十キロも行けば着くだろう、と。
ところが道はいっこうに終わらない。日は次第に短くなるし、旅の道連れも次第にまれになっていく、窓辺には生気のない、青白い顔をした人々が立っていて、首を横に振るだけだ。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013.4

 

人間ではなく、人生を描くこと。
わたしではなく、わたしの人生を生きること。

そのときおこるのは優劣ではない。
呑み込みである。
現実を(人間を、わたしを)排除した、盤上のゲームがうまれるのだ。

 

君にも分かっているだろう、この砦には……みんな望みをつないで居残っているんだ……うまく言えないが、君にもよく分かっているだろう
--中略--
今ではこうしたことにすっかりなじんでしまって、それを捨てるとなると、さぞつらい思いをすることだろう。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013

 

それでも夢中で生きているひとは、かわいそうなのだろうか。
かえりみ、あわれみ、笑うことで慰めとするべきだろうか。

わたしにはそれがよくわからない。

 

それは古い木の板の中にも生命への執拗な愛惜が呼び覚まされる時なのだ。遠い昔の、幸せな日々には、若々しい熱と力が流れ、枝からは無数の芽が萌え出ていたのだ。それから、木は切り倒された。そして春が巡って来た今、ごくかすかに、生命の脈動が蘇ってきたのだ。
昔は葉や花が、そして今はそのおぼろな思い出だけが軋み音となって蘇り、それっきりまた次の年まで眠りにつくのだ。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013

 

自然の美しさだけが(なんて安易なことばだろう)、かれらを物語にする。いのちにする。

砂漠を待って、えんえんと春をむかえつづける。
そしてまた、冬。

 

ちょうどその時、雪が降りはじめた、重くて密な、真冬のような雪だった。まるで信じられないほど、またたく間に、岩棚の上の砂利は真っ白くなり、そして光は不意になくなった。それまで誰も真剣には考えていなかった夜がだしぬけに来たのだった。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇 功 岩波文庫 2013

かれらの人生を、まるで実存する希望のように抱いてしまっているわたしの、このおだやかなきもちも、また、ゲームなのだろうか。
この物語を愛しているわたしこそが、まさに喜劇といえるかもしれない。
それでもどうしようもなく、わたしはこの物語が好きだ。

コメント

このブログの人気の投稿

4月

*見える

5170