3月 - 5月 17, 2020 * そういう私達についての物語は、生そのもののように、果てしがないように思われた。堀 辰雄『風立ちぬ・美しい村』新潮文庫 1951.1 わたしはわたしを知りたい。だから、だれかが書いた百冊ではなく、あなたが書いた一冊が読みたい。鏡の城はうつくしいだろう。飽きないだろう。そこに世界はあるだろう。わたしの外があるだろう。世界はあなたが手に入れて。わたしはひとつでいい。あなたが掲げるひとつの鏡をのぞきこみ、たったひとりで映るわたしを見つけたい。わたしは眼がよわいから、そこまででもう、十分だ。 コメント
***ベンチ - 6月 24, 2020 視線 ひとがどんなにたくさんいても、わたしを見ていない ひとがどんなにたくさんいても、わたしだけを見ている たとえようのない視線が見たものは、 わたしのなにだったのだろう。 傷つくことは裏切りに思える。 しかしそのまえに、わたしはいちばんたいせつな、 ゆいいつの存在を裏切ったのではないか、とも思う。 * まだ子どもだったころ、公園のベンチに腰掛けたことがある。 わたしは空が見たかった。 空気を吸いたかった。 いまのわたしは、あのときのわたしなのかもしれない。 きんじられた幼いわたしが、いま、空を見て、 空気をめいいっぱい吸っている。 顔をあげられない愛しいひとに、わたしは手をふる となりのベンチに座るひとのために、わたしは泣けない ひとがいのちであることを思いだそう。 あす、わたしに刺さる視線を、きちんと、いのちなんだ、 と受け入れよう。 あれは感情ではない、無感情でもない、いのちなのだ。 * ゆうきがほしいのだろう そのきぶんは、あんがい温順しく、長毛の仔猫みたいに、 ふわりふわりと先端をひからせる * しすがにしなさい 続きを読む
**言語(まほう) - 6月 24, 2020 まほうって、あのひとは言ったのだったか わたしの目にも、いま、まほうがかかっていて 世界がとても優しく 美しく 尊く 泣きたいほど愛しくおもえる わたしは、「みんなとおなじ」、 ということばにこだわってきたけれど、ようやく、わかった、 っておもう わたしは足りなくなんかなかった 手があって 足があって よくあることばだと思っても聞いて 声があって どこもいま痛くなくて 真実だとわたしが思えたことが大切だから わたしのぶんのロッカーがあって わたしが歩く場所がある あたまのなかには場所がなかったんだ 空間がなくて ことばもなくて だからわたしは安らげたのだけれど この 雑多な世界もすてきです わたしはじゅうぶんに生きている 価値があり 意義がある なによりも まほうにまもられている * わたしがなくなる、とふるえたのだった なくなったのかどうかはもうわからない ただ いまのわたしがここにいる 続きを読む
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