9月
わたしはたたかっていない。
熱を出していない。
いま、ここにいて、
ときどき、ぴょんぴょんと跳ねて、
足首をひねってしまうか、
つかれて、
ねむくなるのもいいなとおもっている。
だから、わたしはくるしくないのだ。
これはたたかいではない。
しんぱいはなにもいらない。
ぴょん、ぴょん、
跳ねている。
しらない街で、花が咲いたり、
ひとがうまれたり、
死んだりする。
詩は、「詩」なのだが、
「しらない街」なのだともおもう。
ひとはものがたりだ。
だから、ことばもものがたりだ。
だがそこで、注釈がつく。
詩は詩だ、と。
*
とらえきれないかなしみや、
よろこび、
みえず、ふれられぬ、いのちや、
その終りのことを、
たとえば、ことばにしなくてもいい。
ほうったらかしておいてもいい。
紐づけしてばかりでは、ことばもくるしくなってしまう。
だがここで、ああどうしても、脚注がつく。
世界は言葉だ、と。
*
ゆるされるならいちどだけことばにしておきたい。
わたしは、詩がすきだ。
あなたがすきだ。
わたしはことばを消費しない。
たにんのものも、わたしのものも。
姿勢に優劣などないのだが、
わたしはけっして、
消費してはならないとおもう。
わたしはけっして、
消費しないだろう、えーえんに。
わたしのこころみは、枯渇ではないのだ。
求心でも、もちろんない。
うしなうことで作り出す真空が、
わたしにはどうしても必要なのだ。
まだ、わたしのからだは重い。
まだ、足りない。
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