9月

わたしはたたかっていない。
熱を出していない。
いま、ここにいて、
ときどき、ぴょんぴょんと跳ねて、
足首をひねってしまうか、
つかれて、
ねむくなるのもいいなとおもっている。

だから、わたしはくるしくないのだ。
これはたたかいではない。

しんぱいはなにもいらない。

ぴょん、ぴょん、
跳ねている。

しらない街で、花が咲いたり、
ひとがうまれたり、
死んだりする。
詩は、「詩」なのだが、
「しらない街」なのだともおもう。

ひとはものがたりだ。
だから、ことばもものがたりだ。

だがそこで、注釈がつく。
詩は詩だ、と。


 

とらえきれないかなしみや、
よろこび、
みえず、ふれられぬ、いのちや、
その終りのことを、
たとえば、ことばにしなくてもいい。

ほうったらかしておいてもいい。
紐づけしてばかりでは、ことばもくるしくなってしまう。

だがここで、ああどうしても、脚注がつく。
世界は言葉だ、と。


 

ゆるされるならいちどだけことばにしておきたい。

わたしは、詩がすきだ。


あなたがすきだ。 

 

わたしはことばを消費しない。
たにんのものも、わたしのものも。

姿勢に優劣などないのだが、
わたしはけっして、
消費してはならないとおもう。
わたしはけっして、
消費しないだろう、えーえんに。

わたしのこころみは、枯渇ではないのだ。
求心でも、もちろんない。
うしなうことで作り出す真空が、
わたしにはどうしても必要なのだ。

まだ、わたしのからだは重い。
まだ、足りない。

コメント

このブログの人気の投稿

***ベンチ

**世界中が工事中