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9月

わたしはたたかっていない。 熱を出していない。 いま、ここにいて、 ときどき、ぴょんぴょんと跳ねて、 足首をひねってしまうか、 つかれて、 ねむくなるのもいいなとおもっている。 だから、わたしはくるしくないのだ。 これはたたかいではない。 しんぱいはなにもいらない。 ぴょん、ぴょん、 跳ねている。 しらない街で、花が咲いたり、 ひとがうまれたり、 死んだりする。 詩は、「詩」なのだが、 「しらない街」なのだともおもう。 ひとはものがたりだ。 だから、ことばもものがたりだ。 だがそこで、注釈がつく。 詩は詩だ、と。 *   とらえきれないかなしみや、 よろこび、 みえず、ふれられぬ、いのちや、 その終りのことを、 たとえば、ことばにしなくてもいい。 ほうったらかしておいてもいい。 紐づけしてばかりでは、ことばもくるしくなってしまう。 だがここで、ああどうしても、脚注がつく。 世界は言葉だ、と。 *   ゆるされるならいちどだけことばにしておきたい。 わたしは、詩がすきだ。 あなたがすきだ。    わたしはことばを消費しない。 たにんのものも、わたしのものも。 姿勢に優劣などないのだが、 わたしはけっして、 消費してはならないとおもう。 わたしはけっして、 消費しないだろう、えーえんに。 わたしのこころみは、枯渇ではないのだ。 求心でも、もちろんない。 うしなうことで作り出す真空が、 わたしにはどうしても必要なのだ。 まだ、わたしのからだは重い。 まだ、足りない。

終りに

ことばについて考えるときことばを用いなければならないことは、 大袈裟に言って、わたしには絶望だった。 だから絵が好きだった。 詩も短歌も、ことばを扱うが、 1をいちと言わないことで表現するさかさまは優しくて、好きだ。 小説もおなじ。 隠喩への信心はないのだが、ことばのもつ、 どうしようもない美しさにも、もう、惚れていたのだと思う。 かと言って、ことばで遊ぶのは大嫌いだという偏屈ぶり。 かわいげなく、くちびるをとがらせているのは、しかし、 怖いからであった。 ことばの誤用は取り返しがつかない。 わたしは誤解されたくなかった。 他人という名のことば(フィルタ)を通して、 わたしがわたしと知る者以外の存在へと書き換えられてしまうこと を恐れていた。 ことばの魔法を使うという呪い。 わたしたちはことばから逃れられない、生まれた以上、 生きている限り。   これがわたし。 これがわたしというフィクション。 わたしはあなたの身体に宿りたい。 あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。 伊藤 計劃   わたしたちは物語であるということ、記述はときに後追いになり、 それでも足りないかもしれないこと。一見、 限界にも思えるこれらの挫折は、 わたしをことば以外でゆるすことになった。   ことばでは綴れないから、わたしは、 わたしという物語で応えたい。   出会いたい、怖くても。 歩きたい、このさきへ。 どんなに魅力的で、絶対、正解で、わたしをゆるし、 ぶちのめしても、それでもさきへ歩き続けたい。 見つけたものは失わない。 それはすでにわたしになった、所有ではなく存在に。 もう少し、欲張ろう。 自分を疑おう。 すべてと出会えた、なんて、そんなはずがないじゃないか。 これが結末、なんて、わたしには言えない。   いま、ここで、初めて、わたしたちは出会った。 見つけ合った。 エーテル。 ことば。 物語。 絵。 詩。 哲学。 いのち。 それはいったいなにだろう。 もしもあなたが、その答を見つけたならば、教えて。 わたしにも、ほんのすこしでいい、分けてほしい。

AWAY WE GO

ショールームのバスタブで最愛の告白をする。 所有し損ねた、借りぐらしのふたりは、家を探して、旅に出る。   旅を、人生だと言い切ってしまうのは容易い。 もう少し、やわなものかもしれない。 旅は、やわで、傷つきやすく、しかし、 すてきにわくわくすること。真摯であり、遊び心。 ひとりではできない旅、ことばではできない旅があって、 それらはわたしと並行して存在する。いわば、 ひとつの生命として。 思えば、描くことへ僕を駆りたてていたものは望郷心であり、 それが幼年期への旅に繋がっていたのではないだろうか? 奈良 美智『NARA NOTE』筑摩書房 2001.7 ともにある、小さな子どもたちがはしゃいでいる。 ほとんど迷子になりながら、寄り添い、離れ、 わたしと子どもたちは旅路をいく。   契約は破られるものである。あっさりと、一方的に、性質として。 それでも、分かり易い契約が欲しい。安心の形を手にしたいのだ。 Vは「所有しない」、応える。手を繋ぎ合い、抱き締め合い、 契約を交わし、互いを所有したくない、それらは抜きに、 寄り添って生きていこう、歩いて行こう。   わたしたちは、なにを所有しているのだろう。 個性・解放感・立場・喪失。 目に見えないものですら、わたしたちは所有しきれず、 手放すまいと躍起になっては、疲労し、 ほんとうに欲しいものには、いつまでたっても手が伸ばせない。 愛情・閉塞・実子・あなた。 ある通路で別れて、別の通路でまた出会い、 一本の日の光で照らされた埃だらけの隅っこで、 がらくたが入った一つの箱に、 別々の方向から同時に手を伸ばしたこともありました。 カズオ イシグロ『わたしを離さないで』早川書房 2006.4 この手の中に握り込めるものは、なにひとつないのだ。 目に見える、見えない、関わらず。 わたしたちは、生み出せず、かと言って、 他人の中にも見つけられない。                  暗く寂しい夜の夢   気がつけば知らない原っぱ 大の字に寝そべってる   両の目には夜空の星が映って 暑くもないし寒くもない夜だ   どこからか水が湧いてきて そこいらじゅうが水浸し   見たことも...

イン・トゥ・ザ・ワイルド

わたしがいまここにいるということは、 わたしがいまここにいなければありえない。では、 わたしがいまここにいるということを確かめるすべはあっただろう か。見つかったか。 わたしという領域は、わたし以外の領域が取り囲み、はじめて、 可能となる。 シモーヌ・ヴェイユには神(彼女の定義にのみ依存する)がいた、 ネッロには社会、そして彼ら(『人生、ここにあり!』)。 Cには父がいた。 存在に対する存在として存在がわたしを存在させる。 それは奇跡とも言えるし、悪夢とも言える。   赤ん坊が無事に生まれて、でも両眼がないとわかったとき、 カトリーヌはボタンをはずして、ばってんで閉じた。 その目のおかげで、 熊はダヴィッドを庇護しつつ同時に庇護されているような両義性を 獲得していたのだった。 カトリーヌはぜんぶ言葉で説明してる。これは水、これは洋服、 これは熊さん。たぶん、光にだって言葉を与えてる。 堀江敏幸『熊の敷石』講談社文庫2004.2   両親の胸に抱かれた鏡に映るわたしが贈られる。目のないわたし/ 物があるわたし。よく磨かれた鏡には、歪みのない像が映り、 わたしたちはそれを真実と呼ぶ。 往々にして、矯正や、 スモッグのかけられた像が与えられる場合があるなか、 彼らには真実があり、安心があった。 いのちの生産を抜きにすれば、両親から我が子へ、最高の“提供” だろう。 やがて、ひとは求めることを覚える。パラレルユニバース、 なにかが欲しい、なりたい、捨てたい。 Cは捨てたかった。欲しくないものを所有していたくなかった。 探求ではなく欲求が、旅をはじめたのだ。   物語から疎外された者として、やはり存在するかれらが、 遺された物語を引き継ぐことになる(『ディス/コネクト』 2012)。こうして物語は、幾重にも、多様な様式、主観、 言語によって織り込まれていく。 それらは、おそらくすてきなこと、希望であるのだが、 引用が暴力であるように、輪の閉じた物語を引き継ぐこともまた、 受ける側にはすさまじい暴力となる。 わたしたちは手遅れの季節に生きており、 そのさびしさはけっして癒えない。 なにもかも、悲しみも苦しみも、痛みも、 虚しささえも美しいと思えるときは、たしかにある。だが、 常にではない。その境地に伴うべきことばもない。 わたしたちは生きているかぎり...

リリィ・シュシュのすべて

方法論が解釈が、ひとつの正解になるのは恐ろしい。 わたしは言い切るが、断言こそが反証を支持できる、 と信じているからだ。   わたしたちはいまだに割合に生きている。それも、全体≒全数、 不確かな信頼に数式を重ねて。 精神医学に顕著であるように、多数が正常であり、少数が異端、 それも、宣言側は、聴衆のために語っているのであって、 本人には、別の言語・感覚による解釈があるのだから(イメージ・ 診療録・保険請求・コード、病名はシステムに応じる)、 365度、苦悩はある。   人生が勝ち負けに還元でき、混沌が勝利であるとするならば、 プンプン(『おやすみプンプン』)はだれよりも勝っている。 分人を正しく生み、抱え、引っ張り出し、出され、 彼の現実に対して、一向、誠実に彼のキャラクターを生きている。 これ以上ない混沌。(『私とは何か』、『承認をめぐる病』)   閉塞とはすなわち内圧のなすものである。取手のない壁は、 内圧によってのみ保たれうる。 外気のゆるさは関与しない。あるいは、 僅かなちがいの圧力が外側にあっても、差は、 小さいからと言って消えたりはせず、 存在するかぎり存在し続ける。機微は、内部には知らされない。 分人主義の逃げ場がここにある、つまり、エーテルに。 対人として、わたしたちは構成され、人造のことばを操り、 他人と自己の境界を生きる。だが、時として、“ひと” が関与しない、可視できない関与しか見えない、 そんな対象にわたしたちは出会う。エーテル≒リリイ。   田園は、突如、そこにあり、あり続ける。時を、 時に対して刻めるのは、時だけである。 ひとはいる、そこに、ここに、いたるところ、あのとき、 このとき、あらゆる時にいる。しかし、出会いにあったきぶんは、 “ひと”を排除できるのだ。少なくとも、“わたし”に対して。 たとえば絵が、詩が、創作者(ひと)から遠く、離脱し、 ひとつの自然、生命のように見えることがある。人為的に( 自由意志として)、“ひと”を引き離すことも、 わたしたちはしている。 それによって生まれる、ひととも生命とも、また、作品、 とも言えない対象に、わたしの領域が生まれるとき、 わたしはよろこびを悟り、救いと名付け、号令をかける。 内圧を高めよ、このすばらしいもの(とわたし) を手放してはならない! ...

It's Kind of a Funny Story

取り返しのつくことなどない。   才能を彼女が持っていないように、 SOSの技術も所有していないのは、 ことばより先行して苦痛が与えられてきたためだ。 痛みにはまず耐えねばならない。実際に、 痛みをもっているのは自分自身のみであり、 傷口を他人に提示するよりさきに、自らの手で覆い、 出血を止めようとする、それがひとだ。「痛い」、その ひと言すら後回しになる。ましてや、SOSの習得と行使の難易度は高い。 苦痛が前提としてあることにより、生存の技術は培われていく。 ここに多様性がある。ことばで伝えられるひともいれば、行為、 態度、Gのように絵で声をあげられるひともいるのだ。   Sisters by chance Friends by choice 『うわさのツインズ リブとマディ』2014   自分に(偶然とわたしは呼びたい)ある芽を見つけ出し、 育てること。   父親のセーターはわたし、 親友のレコードはわたしの領域ではない。 アクセントは後者にある。父はわたしではないのだ。 わたしが所有できるものがあるとすれば、それは“わたし” なのである。たとえ自由が奪われても( 閉塞に身を置かざるを得なくとも)、 わたしがわたしであることはだれにも奪われない。 奪うことができない。わたしの現実がわたしにしかないことと、 わたしの現実はわたしに対して自由であることは同義である。   見えない傷があり、見える痛みは在り得ないこと。 わたしたちは肉体である。まず目で見、耳で聞き、肌で触れ、 気配を読み取る。 痛みは知覚できない。心で見つけるしかない。 見えないものはない、と思い込みやすい。そのほうが単純で、 単純なことは易しいから。生きていかれる繊細さでしか、 わたしたちは生きてはいない。 ない、と信じることは、だが、さびしい。あるかもしれない、 の方がわくわくする。わくわくしながら生きていきたい。 傷には肉体で、痛みには精神で寄り添いたい。   折り合いをつけ保つことは、美しい行為だろうか。 あなたはあなた、わたしはわたし、 唯一ですばらしいこの偶然を祝福しよう、これはいい。 わたしがわたしである以上、三本目の腕は望んではならない、 この手で、ある十本の指で絵を描こう。 あなたを愛するようにわたしを愛そう。どうだろう。 正...

SHAME

肉体がある。関係もある。それらはひとつの箱におさまる。だが、 “わたし”がいない。 わたしは箱の外側にいる。箱を見つめて、触れている。しかし、 内側には入れない。わたしはわたしとひとつになれない。“ わたしの疎外”。 カフカにおいて、目くらましのごとく出現する壁が、 Bの前には常にある。 壁は時に壁、時に硝子窓、ついたて、建築、 高架下に居て高架といった形をとり、彼を隔てる。物体による“ 現実の疎外”は寓意を伴わない。確固たる。 ラベルがつけられた箱に対する疎外である。 二重の疎外がここにある。   システムとして、ひとはだれしも自らを阻害し、他者に疎外され、 それを共存と呼んで、生きている。完全なひとは存在せず、 だれもが未完の箱である。 これは希望の問題だ。誤解できる光の筋ひとつ、 囀られる幻の歌声ひとつきざすことのない“わたしの疎外”は、 とうてい、ことばによって記述し得ない。 それらを語るのはまなざし、生活、繰り返される行為。 “現実の疎外”も繰り返される。ハードディスクは取去られ、 部屋にはCと上司が入り込む。   ここに、《異質》なものとして、地下鉄がある。列車(箱) の中で、ひとびとは閉ざされ、等しく運搬(行為)されていく。 ひとである条件は、一括、破棄され、なにものでもない、 言語ではなく領域としての“箱のようなもの”になるのである。   そのうち、例によって、不意に、何の予告もなしに、 自分の精神が、いわば碇がきれて、 頭上の網棚の上で揺れている荷物みたいに動揺するような気がした 。 J.D. サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎 孝 新潮文庫 1974.12 共通コードのない死後の世界や、いまだ到達し得ぬ宇宙があって、 地下鉄は、手っ取り早く、ひとの精神を揺さぶり、個人という( 現在、認識することが正とされている/自他境界)境界を消し、 シャッフルする。清潔な箱、整えられ、 わたしの彩りを詰め込んだ箱も、列車の中では、ぱたぱた、 蓋が役に立たず、ぽこん、“わたし”が押し出されてしまう。 肉体の、境界の箱から飛び出し、精神のみで、 ひとびとは見つめ合う。 ここにしかないフィールドで、Bは他人を求めていく。“わたし” とひとつになれない自分が特別ではない場所で。 希望がないという希望は、しかし、受け入れられない。 ...