リリィ・シュシュのすべて

方法論が解釈が、ひとつの正解になるのは恐ろしい。わたしは言い切るが、断言こそが反証を支持できる、と信じているからだ。

 

わたしたちはいまだに割合に生きている。それも、全体≒全数、不確かな信頼に数式を重ねて。

精神医学に顕著であるように、多数が正常であり、少数が異端、それも、宣言側は、聴衆のために語っているのであって、本人には、別の言語・感覚による解釈があるのだから(イメージ・診療録・保険請求・コード、病名はシステムに応じる)、365度、苦悩はある。

 

人生が勝ち負けに還元でき、混沌が勝利であるとするならば、プンプン(『おやすみプンプン』)はだれよりも勝っている。分人を正しく生み、抱え、引っ張り出し、出され、彼の現実に対して、一向、誠実に彼のキャラクターを生きている。これ以上ない混沌。(『私とは何か』、『承認をめぐる病』)

 

閉塞とはすなわち内圧のなすものである。取手のない壁は、内圧によってのみ保たれうる。

外気のゆるさは関与しない。あるいは、僅かなちがいの圧力が外側にあっても、差は、小さいからと言って消えたりはせず、存在するかぎり存在し続ける。機微は、内部には知らされない。

分人主義の逃げ場がここにある、つまり、エーテルに。

対人として、わたしたちは構成され、人造のことばを操り、他人と自己の境界を生きる。だが、時として、“ひと”が関与しない、可視できない関与しか見えない、そんな対象にわたしたちは出会う。エーテル≒リリイ。

 

田園は、突如、そこにあり、あり続ける。時を、時に対して刻めるのは、時だけである。

ひとはいる、そこに、ここに、いたるところ、あのとき、このとき、あらゆる時にいる。しかし、出会いにあったきぶんは、“ひと”を排除できるのだ。少なくとも、“わたし”に対して。

たとえば絵が、詩が、創作者(ひと)から遠く、離脱し、ひとつの自然、生命のように見えることがある。人為的に(自由意志として)、“ひと”を引き離すことも、わたしたちはしている。

それによって生まれる、ひととも生命とも、また、作品、とも言えない対象に、わたしの領域が生まれるとき、わたしはよろこびを悟り、救いと名付け、号令をかける。内圧を高めよ、このすばらしいもの(とわたし)を手放してはならない!

 

絶望のとなりに

だれかが

そっと腰かけた

絶望は

となりのひとに聞いた

「あなたはいったい誰ですか」

となりのひとはほほえんだ

「私の名前は希望です」

やなせたかし『希望』

 

それでもこの世界はすばらしい。

わたしたちは、だれもが、このうえなく美しい。

 

 

わたしの父はスーパーヒーローだった。わたしが生まれるより以前から。

父は、常に世界のことを考えていた。同時に、ひとりの少年のことを、あのときの少女のことを、いずれ生まれくる彼らのことを考えていた。

わたしは父の傍にいた。わたしが生まれてより以来ずっと。

世界が彼らが、あらゆる時を超越して父に働きかける姿を見てきた。誇らしい気持で、わくわくしながら、疎外された内側から見ていた。

価値観の違いにある価値を認められるようになったのは、つい最近のことだ。

わたしは、正解はこの世にひとつしかない、と思っていた。絶対で、だから揺るがず、以前から、どの以後までもあるもの、わたしが見つけた答は変わらない、そう考えていた。

特別なことがあったわけではない。

強いて言うならば、これまでがずっと特別で、いまようやく、ヒーローのいない、ただそこにあるだけの日溜りにただわたし(らしき者)が立っているただ、と気がついたのかもしれない。日溜り、渚と言ってもいいが、感傷にすぎるか。

ここはとても静かで、だれもいなくて、わたしすらもしかするといないかもしれなくて、でも、だから、すてきな場所。

さびしさはない。なぜなら、この領域の外側には、同じく、自らの領域に立つ父があり、他人があり、過去と未来といまが同時にそして一切が同一としてあるのだ。もっとも近しいことばでいうならば、わたしたちはシニフィエ、この世界はゆえにハーモニー。

 

ほんの数日前のこと、気がついたのだが、「わたしに向いています」とこれまで宣言してきたことが、どうやら、ことごとく、まったく、向いていなかったらしい。

わたしは真面目な性格で、何事にもコツコツ取り組むことができます。整理整頓が得意で、臨機応変な応対も心掛け、習得してきました。

これが、ちがったのだ。

わたしは、承認欲求が、自己(他人に対するわたし/分人)に向いており、執拗で過剰な集中(適応)を制御できない。石橋を叩くかどうかを(叩いたことで死に至るかもしれない、未知数)迷いに迷って、ついには、つまり爆破すればたしかな安全が確認できるでしょう、などと言い出し、しかも実行したりするやっかいな慎重さを引きずり回っている。物が多いと安心できず、内実が鈍いゆえに外面だけがすばやく反応してしまう、習得したのは、ステレオに対するゾンビシステムだったのだ。

気がついたとき、心が、ぐらぐら、沸騰して、声をあげて笑い出しそうになった。なんたる誤解、なんたる差異。分析も必要ないほど明白な、まったくの対極に、自分を規定していたのである。

冗談ではないから、喜劇だ。

 

そうすると、長期的な計画が必要なうえ、自分の能力以外の因子(天候・関税・村にあるあらゆる言語)に左右される農業など、とてもするに苦痛であっただろう。憧れていたのだが。

むしろ、ピアニストなどよかったかもしれない。限界まで練習し、本番も限界を弾く。とても分かり易い。

いちばんできそうもないことをはじめたつもりでいたのだが、いまの仕事は、その点、端的に言えば向いている。

時間はいつだって足りない。ひたすら、目の前の作業をこなし、次のクールへの持ち越し、その逆もない。単純作業ではないし、予測不能の事態しか起こらないが、発生の予測も不可能となれば、計算の苦手なわたしの頭は考慮しない。

わたしは賢くない。ざんねんならが。

ひとにも、作業にも時間にも、うまく立ち回るということができない。思考にも。

そのうち、思考だけが、わたしに期限を設けない。わたしが費やすだけ存在しながら、わたしが望むだけ待っていてくれる。わたしと外部を隔てながら、わたしを守る壁になる。

 

価値観とは、つまりパレットだ。判断基準の識別表ではなく、一滴の色を受け入れるか否か、二択の結末しかない審判の場だ。

わたしとあなたは異なるパレットを持っている。わたしの好む色が、あなたのパレットの上では透明で、あなたの信じた色は、わたしのパレットには定着せず、揮発する。

わたしたちは同じ絵を描かない。同じ空をそれぞれの色で塗り、描かない/描く、差異は生まれ、事実(時に数量)となって世界を多様にする。

この世界を写実しきれないこの世界を、現実という名の絵にできる。ことばによらない領域を維持できる。

 

この謎解きと思考の世界が、孤独で、不条理で、あるいは意味(シニフィアン)だらけで、窮屈で、苦しく思えても、それでもあるから、あるのだ。1を0にする方法を行使することは可能ではある。それが、あなたの見つけた答、たったひとつの冴えたやりかた、後戻りできない退路なのかもしれない。

否定はしない。

あなたのいのちはあなたのものではないが、あなたの現実はあなただけのものだ。

わたしたちが与えられている唯一の“ことば”だ。

手放す自由はある。

 

退屈すぎる、というのはなしだ。

わたしたちは、そうするほかないから、百万冊の本を読まずに語る。母から教えられた言語でのびのびと歌う、名前のある色で絵を描く。だがそれは、つまり世界と同義、ということでは、けっしてないのだ。

わたしはベルリンに行ったことがない。かといって、二十年間独房にいたこともなければ、他人に愛されたことも、愛したこともない。親友のために花を育てたことも、星が怖く思えたこともない。

だから世界を知らない。

だけれど世界を知っている。

世界ってさ、けっきょく、わくわくなんだよ。きぶんなのさ。

わたしはとても怖がりだから、はたはた、心臓を震わせて、365日絶えず、肉体のために生活を調整し、生活のために現実を調整し、現実のために心を調整して生きている。窮屈だ、ときどき思う。もっと食べたくて泣いちゃうし、38キロの物質はわたしにいっこう応えてくれやしなくて、腹も立つ。情けなくもなる。ぶちのめしてやりたくて、ぶちのめす。自分を他人の代りにできるのは都合がよいな、と思い、甘んじて楽をする。

心も引きずる。あいつは歩くのが遅い。

それでも、わくわくするのだ。

ひとつの音、色、ことば、知覚、幻想、しずく、未来、フィクション、狂気、悲しみ、コットンシャツにない縫い目、すだれの向こうに沈む今日のうちの半分、風の影にちがいないかささぎ、わたし、あなた、生と死。

おおきなもの、ちいさなこと。

動物の形に焼いたカステラ生地のおやつ、あれが、街中のどのお店にも見つけられなくて、いつからわたしはパラレルワールドに入り込んじゃったのかしら、思う。ねこじゃらしが浮腫んで、おまけに癇癪を起したらしく毛をぶるぶる揺らすねこじゃらしとはちがう植物を、女のひとが手入れしていて、ほほう、驚いたり、かと思えば、赤の他人が、赤の他人の子どもを怒鳴りつけていて、心の中の和毛が焼けて、心も焼けて、「いかがなさいましたか」そのひと言を、わたしの口が(信じられない勇気を見つけて)発したりする。

いつも目を合わせないひとが、わたしを見つめたことに喜び、けなされている全世界の責任がほしくて、だれもいないところで手を挙げる。要するに、よく分からない。

身体が痛いと、死が恐ろしくも待ち遠しくもなる。上手に焼けたシフォンケーキを枠から取り出せば、ほんと、もう消えてしまいそうなほどの幽かな希望が手のひらを伝わってきて、辛い。

晴れていると嬉しくて、雨だと頭が重い。

晴れていると眩しくて、目が潰れそうで怖い。

雨の音はときどきわたしを責めて、ついでと言わんばかりに、ベランダで踊る。

悲鳴は打ち消される。

消えていくから、消えない時がある、なんて言って。

論理ではなくて、屁理屈だ。

 

それでもこの世界はある。あるから、ある。

わたしは、気がつくたびに、どきどきしている。

 

わたしがいないと、どきどきできなくて、わくわくも。

それはちょっぴり、さびしいことだと思う。あとから、ね。いればわたしが、いなければ、たぶん、だれかが、ね。

 

知らないではいられない。あると知ってしまったから。

見つけないではいられない。片方の目はもう潰れたから。

 

考えてもみて。

この部屋には窓があるんだ。壁でもよかった、空気孔でよかったはずなのに、わたしたちは(過去はいま、という連帯感は排除すべきではない)窓を創り出した。

たしかに、コンコン、壁を叩いても知り合える(『重力と恩寵』)

窓ならば、ノックもいらない。そこに立ち、目を見開くだけで見つけられる。

窓さえなきゃいい、と思うかい。いっそ、境界という言語を捨てよう、時間とひとを同義にしよう、うんぬん。

でもそれだと、わたしとあなたの区別がつかなくなってしまう。領域という足かせは、ひとがひとであることに不可欠なのだ。いつか、自他境界の概念は否定される日がくるかもしれないが、まだなのだ。未到達の世界に、わたしたちはいまここにいる。

 

父のまなざしのさきに、女の子が立つ。彼女は微笑む/行為を知らない。だが、そこが、いま自分が立つ場所が、日溜りであるとは感じている。父の方も、女の子が存在している、世界の条件を受け入れている。

わたしは外側にいる。

しかし、ここはわたしの内側であり、世界は、わたしのパレットに絶えず降り注いでくる。うち、いくつかの色が留まり、わたしの指を待っている。立ち回れないわたしのために、時間を超越して、(時間の概念なしには行為にならないはずが、それでも)待っている。

 

情報は、例外なく、破壊を性質とする。

美しいもの、わくわくすることも、わたしたちの領域を食い尽くそう、たくらんでいる。

発見はこの旅の発露であり、旅に目的は存在しない。世界のように、「なぜ」、そのことばは、答(ことばに依らない、だからわくわくするんだ)と対でなければ、わたしと対でなければ、生まれない。

 

わたしの時も、一時十七分、針を止めている。

火は見当たらない。

一本、この手が杖を、握っている。

 

気がつくだけでいい。

求めたり、見つけたり、生み出す必要はない。

わたしを鏡の中に見つける以前にわたしが存在するように、あなたを支えるなにかは、あなたの存在と対になって存在している。

エーテル、絵画、ことば。

苦痛、哲学、詩、数式。

振り返っても、振り返っても、その姿は見えないだろう。

わたしには捉えきれないところに、しかし、なによりもわたしに近いものとしてある。ひとは、それらを拠り所として、寄生され、打ち消し、気づき合いながら、旅を行く。

わたしには物語だった、といま思う。

頭の中、肉体の表裏に創造した物語に、わたしは“わたし”を還元することで、早過ぎる世界の針になんとか追い縋って生きてきた。イマジナリーフレンドにわたしがなること。わたしのたったひとつの退路。

(自分がいまなにを話しているのか、そもそもなにを感じているのかが、ついぞ分からなかったり、あらゆる記憶がセロファン的薄さであったり、それでもあるだけましで、ほとんどのことは思い出せなかったり、向いていることを表裏誤解したり、そうだと気がつかないまま、わたしの道程を追う物語を(神経を繋ぐように)つないで綴ってきたことが、わたしに、自由意志を信じさせない要因になっていることはたしかだ。「不条理」とひとは口にするが、わたしには、わたしそのものが、もっとも奇怪で、だから単純で、愚か、おおいに可愛らしく、憎たらしかったりする、不条理そのもの。頭がとっても柔軟なひと(つまりそれが賢いということ)と、てんでばらばらなものをいちおう(社会として)頭と呼ばれているひと(わたし)のようなひとらしき存在は、謎を受け入れやすいのかもしれない。「わからない」ということを、ことばよりも経験上見知っているのだ)

 

わたしはそれを、だれにも分け与えることをしなかった。

 

ちいさな後悔が、わたしの中に火を生む。

そんなふうにして、いのちは、一頁、一節、一行ずつ、つながれていく。

崩壊しつつある連にあって、わたしはあなたを愛しているとは言わない。

ただ、あなたはある、と伝えたくて、わたしをここに残そうとしている。

 

あなたという鏡に映る醜い像にわたしはなりたい。

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