SHAME
肉体がある。関係もある。それらはひとつの箱におさまる。だが、
わたしは箱の外側にいる。箱を見つめて、触れている。しかし、
カフカにおいて、目くらましのごとく出現する壁が、
壁は時に壁、時に硝子窓、ついたて、建築、
二重の疎外がここにある。
システムとして、ひとはだれしも自らを阻害し、他者に疎外され、
これは希望の問題だ。誤解できる光の筋ひとつ、
“現実の疎外”も繰り返される。ハードディスクは取去られ、
ここに、《異質》なものとして、地下鉄がある。列車(箱)
そのうち、例によって、不意に、何の予告もなしに、
自分の精神が、いわば碇がきれて、 頭上の網棚の上で揺れている荷物みたいに動揺するような気がした 。 J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎 孝 新潮文庫 1974.12
共通コードのない死後の世界や、いまだ到達し得ぬ宇宙があって、
ここにしかないフィールドで、Bは他人を求めていく。“わたし”
希望がないという希望は、しかし、受け入れられない。
いつ、“わたしの疎外”は起こったのか。
どんなに望み、求め、こころみ、祈っても、変化を許さぬ分断は、
わたしたちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ。
『SHAME-シェイム-』2011
1900(『海の上のピアニスト』)は船の中で育った。
世界(わたしとあなたの現実を両義とするものとする)
悪い場所、悪い時間を脱出する対価として、Bは引き裂かれた。
BとC、ふたりは鏡越し、裸体で対峙する。
Cは恋愛を求め、Bは社会を手に入れている。
ふたりが互いに見るのは、要素ではなく可能性、
ここに完全な小説がある。ないはずが、ある。
かの時節、わたしの中にきみが見るのは
黄色い葉が幾ひら、あるかなきかのさまで
先日まで鳥たちが歌っていた廃墟の聖歌隊席で揺れるその時。
わたしの中にきみが見るのは、たそがれの
薄明かりが西の空に消え入ったあと
刻一刻と光が暗黒の夜に奪い去られ、
死の同胞(はらから)
である眠りがすべてに休息の封をするその時。 わたしの中にきみが見るのは、余燼の輝きが、
灰と化した若き日の上に横たわり、
死の床でその残り火は燃え尽きるほかなく、
慈しみ育ててくれたものとともに消えゆくその時。
それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、
永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう
(作品中、ウィリアム・シェイクスピア/
ソネット73番として引用) ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』東江 一紀 作品社 2014.9
ストーナーには、詩というプロダクトキーがあり、
Bにはキーがない。
予感があり、選択のとき、映るのは黒いさざなみ、無声の世界。
“わたし”以外を閉じ込める。
わたしは中心/外側にいて、囲む365度の世界が疎外/
三つ目の疎外はこうしてなされた。
テレビの中の列車、三重構造。
わたしの箱をばらばらにして、裂き、ふたつの箱として作り直す。
これからはすべてよくなる
『ファイト・クラブ』1999
互いを飾り立てる“家具作り”は、しかしファンタジーであり、
悪い場所において、ふたつの箱(BとC)
だからこそ、Cは声で、歌で、呼び掛けており、
わたしをひとつの箱に統合できないように、ふたりも、
完璧な一分間だけが、時間を超越する。壁のない病室、
ひとつの印象が与えられている。《異質》な地下鉄に、
キーは彼女の声にある。絶望としての歌にある。
鏡を介さずに見つめたならば、それは、
あるいは愛を呼ばれるものに。
わたしたちは寓意ではない。ファンタジーではないし、
現実であり、そうではないと信じたいとしても、結局は、
人生において、わたしたちにできることは、選択のみである。
わたしたちは理由もなく生まれた。
理由もなく生きていく。
はじまり、終りつづける物語という名の箱を信じて、安心して、
せずにはいられない期待を、どうにかこうにか、疎外しながら。
日中、泣き疲れた子どものように、
やみくろ(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
彼女がその世界で聞いていた音が知りたくて、
わたしがなにを聞いたかを伝えるために、やがて、
おおむね、このようなことばかりしている。
わたしは自分の話をすることが苦手だ。
わたしがなにをしてきたか。なにを感じ、考え、よろこびとし、
どんなことばであれば足りるのか分からない。
きめたとき、はじめは、“わたし”
ものすごく……を書き終え、
わたしは絵にタイトルがつくことを嫌っているが、タイトル下に、
ならばなぜ、わたしたちには映画ログというシステムが存在し、
謎解きという要素はたしかにある。そして要素は山をなす。
だが、広い領域を占めるひとつの要素は、“わたし”
わたしは『伊藤計劃記録』『伊藤計劃記録:第弐位相』
たぶん、それが、わたしにはなによりのよろこびだった。
わたしがいまここにいるという大前提を気に入っていなかったわた
これがわたしの限界。
これがわたしのことばのいま。
わたしを前提にして、書くことにした。
ここにある不快も、もしかすると快も、虚しさも、
そんなこと、望んでなどいなくても。
互いをもう知ってしまったのだから。
学生の頃、入職試験の応募書類を送付した会社から、
手紙は簡潔に、わたしに社会(全体)
対峙する双眼の中で、わたしはしばしばゴミとなる。
疎外されていたはずの人間が紛れ込んできた嫌悪と恐怖に、
わたしは楽天家なのだと思う。性善説を信じるくらいには。
拒絶に合うと、“いけない、場所を間違えてしまった。
ことばとはなんだろうか。
実は、このときの、手紙を“なんだろうか”開けて、読んで、
日々思い返すにしては、翌朝の震えは強烈すぎたし、
いま、すこしだけ考えてみて、あの時の衝撃は、憎悪が、拒絶が、
表情のように解読の余地はなく、
ことば。わたしたち。脈々。
この世界すべてから「ノオ!」と言われたあの日。
わたしはことばを道具にしたくない。
言葉だって、絵の具と変わらない・ただの語感。ただの色彩。
最果 タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトル・モア 2014.8
ことばから超越させることも、支持できない。
わたしは木ばかり見ているのだろう。
世界は森なのに。
だが、この目で見られるものを見ないで、ある愚かさを捨てて、
わたしはわたしでいい。
わたしがよい。
なにのためにも、わたしだけは、わたしを捨ててはならない、
雨があがった。
あがるって、帰るってことなのだろうか。
なんてことを、あとすこし話したくて/あなたと、
ことばに還していく。
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