SHAME

肉体がある。関係もある。それらはひとつの箱におさまる。だが、“わたし”がいない。

わたしは箱の外側にいる。箱を見つめて、触れている。しかし、内側には入れない。わたしはわたしとひとつになれない。“わたしの疎外”。

カフカにおいて、目くらましのごとく出現する壁が、Bの前には常にある。

壁は時に壁、時に硝子窓、ついたて、建築、高架下に居て高架といった形をとり、彼を隔てる。物体による“現実の疎外”は寓意を伴わない。確固たる。ラベルがつけられた箱に対する疎外である。

二重の疎外がここにある。

 

システムとして、ひとはだれしも自らを阻害し、他者に疎外され、それを共存と呼んで、生きている。完全なひとは存在せず、だれもが未完の箱である。

これは希望の問題だ。誤解できる光の筋ひとつ、囀られる幻の歌声ひとつきざすことのない“わたしの疎外”は、とうてい、ことばによって記述し得ない。それらを語るのはまなざし、生活、繰り返される行為。

“現実の疎外”も繰り返される。ハードディスクは取去られ、部屋にはCと上司が入り込む。

 

ここに、《異質》なものとして、地下鉄がある。列車(箱)の中で、ひとびとは閉ざされ、等しく運搬(行為)されていく。ひとである条件は、一括、破棄され、なにものでもない、言語ではなく領域としての“箱のようなもの”になるのである。

 

そのうち、例によって、不意に、何の予告もなしに、自分の精神が、いわば碇がきれて、頭上の網棚の上で揺れている荷物みたいに動揺するような気がした

J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎 孝 新潮文庫 1974.12

共通コードのない死後の世界や、いまだ到達し得ぬ宇宙があって、地下鉄は、手っ取り早く、ひとの精神を揺さぶり、個人という(現在、認識することが正とされている/自他境界)境界を消し、シャッフルする。清潔な箱、整えられ、わたしの彩りを詰め込んだ箱も、列車の中では、ぱたぱた、蓋が役に立たず、ぽこん、“わたし”が押し出されてしまう。肉体の、境界の箱から飛び出し、精神のみで、ひとびとは見つめ合う。

ここにしかないフィールドで、Bは他人を求めていく。“わたし”とひとつになれない自分が特別ではない場所で。

希望がないという希望は、しかし、受け入れられない。

 

いつ、“わたしの疎外”は起こったのか。

どんなに望み、求め、こころみ、祈っても、変化を許さぬ分断は、まったくの反動である。

わたしたちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ。

『SHAME-シェイム-』2011

1900(『海の上のピアニスト』)は船の中で育った。外の世界のない、安全で美しい箱の中で。

世界(わたしとあなたの現実を両義とするものとする)という箱の中のわたしという箱、この二重構造は、可能性(変化)の迫害を条件に凄まじい強度を生む。抑圧こそが箱を作る。

悪い場所、悪い時間を脱出する対価として、Bは引き裂かれた。箱は、そうであるように蓋を開けたが、同時に彼を閉め出したのである。

 

BとC、ふたりは鏡越し、裸体で対峙する。

Cは恋愛を求め、Bは社会を手に入れている。すばらしいとう言うと齟齬があるだろうが、ありふれた生活である。人生はこころみ。苦痛であり、それゆえ喜びであるのであって、ふたりにある困難は要素として容認できるものだろう。

ふたりが互いに見るのは、要素ではなく可能性、パラレルユニバースであり、結末であり、希望はないのだと言う再認識の同意。『裸のわたしとわたしとふたつの箱』としての出会い、この世でたったふたり、たったふたつという、希望。

 

ここに完全な小説がある。ないはずが、ある。

 

かの時節、わたしの中にきみが見るのは

黄色い葉が幾ひら、あるかなきかのさまで

先日まで鳥たちが歌っていた廃墟の聖歌隊席で揺れるその時。

わたしの中にきみが見るのは、たそがれの

薄明かりが西の空に消え入ったあと

刻一刻と光が暗黒の夜に奪い去られ、

死の同胞(はらから)である眠りがすべてに休息の封をするその時。

わたしの中にきみが見るのは、余燼の輝きが、

灰と化した若き日の上に横たわり、

死の床でその残り火は燃え尽きるほかなく、

慈しみ育ててくれたものとともに消えゆくその時。

 それを見定めたきみの愛はいっそう強いものとなり、

 永の別れを告げゆく者を深く愛するだろう

(作品中、ウィリアム・シェイクスピア/ソネット73番として引用)

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』東江 一紀 作品社 2014.9

ストーナーには、詩というプロダクトキーがあり、人生に彩色が施された。

Bにはキーがない。

予感があり、選択のとき、映るのは黒いさざなみ、無声の世界。

“わたし”以外を閉じ込める。

わたしは中心/外側にいて、囲む365度の世界が疎外/内側となる。

三つ目の疎外はこうしてなされた。

テレビの中の列車、三重構造。

 

わたしの箱をばらばらにして、裂き、ふたつの箱として作り直す。それによって、ぼくからタイラー・ダーデンへ、呼び掛けることが可能になる。

これからはすべてよくなる

『ファイト・クラブ』1999 

互いを飾り立てる“家具作り”は、しかしファンタジーであり、ゆえにただひとつの例外となるのだ。

悪い場所において、ふたつの箱(BとC)がひとつであったと考えると、すでに、例外となる引き裂きは起きている、と言える。

だからこそ、Cは声で、歌で、呼び掛けており、涙の理由もそこにある。応えられない、とBは知っているのだ。

わたしをひとつの箱に統合できないように、ふたりも、二度とひとつにはなれない。

完璧な一分間だけが、時間を超越する。壁のない病室、空と雨が降る港、疎外を存在させない、平等な虚無がそこにはある。世界もわたしも、取り囲む圧力を失い、箱を展開させ、統合に至る。一瞬が永遠に続く、宇宙が点になる。だから泣き声は、安心して、消せる。

 

ひとつの印象が与えられている。《異質》な地下鉄に、ふたりのシーンはない。Bは現実を車内に閉じ込めたが、Cの存在は、どちら側に置いただろう。

キーは彼女の声にある。絶望としての歌にある。

鏡を介さずに見つめたならば、それは、希望と呼べるものに似てはいないだろうか。

あるいは愛を呼ばれるものに。

 

わたしたちは寓意ではない。ファンタジーではないし、断片でもない(西岡兄妹が描いている)。

現実であり、そうではないと信じたいとしても、結局は、総体なのだ。それが人生と呼ばれている。

人生において、わたしたちにできることは、選択のみである。

わたしたちは理由もなく生まれた。

理由もなく生きていく。

はじまり、終りつづける物語という名の箱を信じて、安心して、このいのちをゆだね、生きていくのだ。

せずにはいられない期待を、どうにかこうにか、疎外しながら。

 

日中、泣き疲れた子どものように、歯切れ悪く降り続いていた雨が、夜になって本降りになった。

やみくろ(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)の気配がする。

彼女がその世界で聞いていた音が知りたくて、わたしはわたしに音抜きをする。

わたしがなにを聞いたかを伝えるために、やがて、音抜きを中断する。

おおむね、このようなことばかりしている。

 

わたしは自分の話をすることが苦手だ。苦手なことはやりたくないひとだ。わたしという存在の一切が愚かさの証明である、自覚し、こころみてもいるのだが、容易いほうがそりゃあいい。

わたしがなにをしてきたか。なにを感じ、考え、よろこびとし、苦に思ってきたか。

どんなことばであれば足りるのか分からない。わたしが深遠だと言うのでは(まさか!)ない。単純な、記述技術の問題だ。あと、性質の。

きめたとき、はじめは、“わたし”を排除した、物語(映画)の考察に特化したものにするつもりでいた。本編鑑賞後、うすくらやみからうすくらやみへ押し出され、穀物の甘い死の匂いと、これからスクリーンへ向かう浮き立つ顔また顔の波にあって、漫然と、出口へ歩く脚というシステム。戸惑い方を思い出せない人々の傍ら、ロビーの片隅から、得体の知れない棒読みのナレーションが聞こえてくる、そんな風景を考えていた。

ものすごく……を書き終え、間違いだったと分かった。物語は映画にある、過不足なく語られている。ことばで書き換える行為は、まったくの無駄なのである。

わたしは絵にタイトルがつくことを嫌っているが、タイトル下に、えんえん、解説を連ねようとしていたわけだ。無駄を超えて、絵を破壊するさびしい行為である。

 

ならばなぜ、わたしたちには映画ログというシステムが存在し、いくらかの人々が、いくらかの人々に向けて、ログの共有をこころみているのか。

謎解きという要素はたしかにある。そして要素は山をなす。

だが、広い領域を占めるひとつの要素は、“わたし”の提示だろう。

わたしは『伊藤計劃記録』『伊藤計劃記録:第弐位相』を読んでなにを得たのか。もちろん、映画の知識を得た。映画を観る(行為)のよろこびを知った。それまで見つけられなかった解答も、わたしにきらめいて見える景色のモノクロの複製も見た。磨かれた原石の乱反射、川底に還ることができた安心に沈む。わたしの現実が拡張され、そして、それらを要素とする“わたし”の存在を知ったのである。

たぶん、それが、わたしにはなによりのよろこびだった。

わたしがいまここにいるという大前提を気に入っていなかったわたしにとって、彼が存在する彼という存在がある時どこかにあった現実との出会いは、大きな衝撃となった。

これがわたしの限界。

これがわたしのことばのいま。

 

わたしを前提にして、書くことにした。

ここにある不快も、もしかすると快も、虚しさも、ほんの欠片の救済も、わたしからあなたへ、あなたからわたしへ、還元されていくものである。

そんなこと、望んでなどいなくても。

互いをもう知ってしまったのだから。

 

学生の頃、入職試験の応募書類を送付した会社から、一通の手紙をもらったことがあった。直筆で、地方の小さな会社ではあるのだが、理事からわたしへ、文章は綴られていた。

手紙は簡潔に、わたしに社会(全体)が与える仕事はひとつしかありえないこと、付け加えて、当時わたしが在籍していた学校へ、履歴を詐称して入学したのは間違いである、学校の理事と自分は知り合いであるから、罪の告白はあなたからしなさい、とあった。

対峙する双眼の中で、わたしはしばしばゴミとなる。

疎外されていたはずの人間が紛れ込んできた嫌悪と恐怖に、彼らの頬は引き攣る。

わたしは楽天家なのだと思う。性善説を信じるくらいには。

拒絶に合うと、“いけない、場所を間違えてしまった。ここはすてきなところ、わたしでよいところじゃなかったのだ”、さっさと理解し、諦める。

 

ことばとはなんだろうか。

実は、このときの、手紙を“なんだろうか”開けて、読んで、反応の鈍いわたしである、まったく対応に値する表情の見当もつかず、取り出された自らの心臓を、おたおた、持ち回って、そのうち胸に押し込んで、感覚のことは都合よくわすれて、生きている。

日々思い返すにしては、翌朝の震えは強烈すぎたし、先方に誤解された旨を告げた時の担当教官の呑んだ息の音は大きすぎて、結局のところ、めそめそしたり、絶望したり、意地になる賢さも、わたしにはないのである。

いま、すこしだけ考えてみて、あの時の衝撃は、憎悪が、拒絶が、わたしに分かることばで伝えられたことにあるのだろう。

表情のように解読の余地はなく、わたしは彼・彼女の存在をよく知ってはいなかったから、ことばそのものから拒絶されたのだ。

ことば。わたしたち。脈々。

この世界すべてから「ノオ!」と言われたあの日。

 

わたしはことばを道具にしたくない。

言葉だって、絵の具と変わらない・ただの語感。ただの色彩。

最果 タヒ『死んでしまう系のぼくらに』リトル・モア 2014.8

ことばから超越させることも、支持できない。

 

わたしは木ばかり見ているのだろう。

世界は森なのに。

だが、この目で見られるものを見ないで、ある愚かさを捨てて、ない賢さを求めて、なんになる。

わたしはわたしでいい。

わたしがよい。

 

なにのためにも、わたしだけは、わたしを捨ててはならない、と思うのだ。

 

雨があがった。

あがるって、帰るってことなのだろうか。

なんてことを、あとすこし話したくて/あなたと、わたしはわたしをことばにしていく。

ことばに還していく。

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