It's Kind of a Funny Story

取り返しのつくことなどない。

 

才能を彼女が持っていないように、SOSの技術も所有していないのは、ことばより先行して苦痛が与えられてきたためだ。

痛みにはまず耐えねばならない。実際に、痛みをもっているのは自分自身のみであり、傷口を他人に提示するよりさきに、自らの手で覆い、出血を止めようとする、それがひとだ。「痛い」、そのひと言すら後回しになる。ましてや、SOSの習得と行使の難易度は高い。

苦痛が前提としてあることにより、生存の技術は培われていく。ここに多様性がある。ことばで伝えられるひともいれば、行為、態度、Gのように絵で声をあげられるひともいるのだ。

 

Sisters by chance

Friends by choice

『うわさのツインズ リブとマディ』2014

 

自分に(偶然とわたしは呼びたい)ある芽を見つけ出し、育てること。

 

父親のセーターはわたし、親友のレコードはわたしの領域ではない。

アクセントは後者にある。父はわたしではないのだ。わたしが所有できるものがあるとすれば、それは“わたし”なのである。たとえ自由が奪われても(閉塞に身を置かざるを得なくとも)、わたしがわたしであることはだれにも奪われない。奪うことができない。わたしの現実がわたしにしかないことと、わたしの現実はわたしに対して自由であることは同義である。

 

見えない傷があり、見える痛みは在り得ないこと。

わたしたちは肉体である。まず目で見、耳で聞き、肌で触れ、気配を読み取る。

痛みは知覚できない。心で見つけるしかない。

見えないものはない、と思い込みやすい。そのほうが単純で、単純なことは易しいから。生きていかれる繊細さでしか、わたしたちは生きてはいない。

ない、と信じることは、だが、さびしい。あるかもしれない、の方がわくわくする。わくわくしながら生きていきたい。

傷には肉体で、痛みには精神で寄り添いたい。

 

折り合いをつけ保つことは、美しい行為だろうか。あなたはあなた、わたしはわたし、唯一ですばらしいこの偶然を祝福しよう、これはいい。

わたしがわたしである以上、三本目の腕は望んではならない、この手で、ある十本の指で絵を描こう。あなたを愛するようにわたしを愛そう。どうだろう。

正しいこと、結末、総体は、美しく見えるものだ。

ひとは、正しい存在だろうか。この旅は中途(永遠に)であるし、断片の集まりとして総体であるだけだ。

答はわたしにあるのかもしれない、すでに与えられている、代入不可の絶対数値にて。

それでも、あがいていいのだ。

わたしを変えたい、あなたになりたい、そう思ってなにが不幸なのだ。

できないことができるようになりたい、この思いをもう感じていたくない、あの表情を手に入れたい、駄々をこねて、格好悪くあがいて、逃げて、飛び込んで、閉ざして、手放して、こころみていい。答がすでにあるのならば、むしろ、みっともないほど誠実な探求で応えよう。

美しくなくていい。人生はどきどきするほうがいい。苦しさにも。

楽器を持っていない人は? ご心配なく ボーカルを頼もう

It's Kind of a Funny Story』2010

わたしとあなたを分け合うこと、それさえ忘れなければ、現実は終らない。

 

ほかのだれも“わたし”ではない。ならば、わたしがここにいる、という現実はどうやって確かめられるだろう。

確かめることは、おそらく、不可能だ。

だが、わたしは、選択に基づくものとして、いちばん遠い希望をあてがいたいと考えている。

わたしたちは、わたしたちによって確かめられる。あなたがそこにいて、わたしがここにいる、確立できる、生きていける、信じたい。

名前を呼びあって、存在を分け合って、確かめ合って、生きていきたい。

“あなたはそこにいる”、認めることが、最上の愛情だと思っている。

 

はじめに「鍵」と口にしたのはドーラ、ジョズエが「ゲーム」と言った。意志の存在を伝えたのはフェルッチョ。グイドはチャンスを逃さなかった。(『ライフ・イズ・ビューティフル』1997)

ひとは、自分達の想定よりも、はるかに、我慢強い。あきらめも悪い。

日常が崩れ落ちる、がらがら、音が聞こえたら、スタートは切られた、あたらしい旅へ、悲鳴のファンファーレを贈りながら歩いて行こう。生きていこう。

わたしが“わたし”であるという無二の希望は、偶然、与えられている。

あとは親友になるだけだ。

 

 

窓にたどりついたあまつぶが、われさきに、伝う。

しずくになったまま張りついて、これでよし、というものもある。

この雨が止んだら、流れ落ちた雨も、張りついた雨も、等しく、上空に還るのだろう。

そのとき、いのちが抜け出るみたいに煙幕がたち込めて隠される秘密を、なにがなんでも隅から隅まで解き明かしてやろう、そんな光が苦手だ。

 

答も光もいらない。そんなきぶんに時々なる。

これ以上、わたしを破壊したくなくて、ぴしゃり、窓に向かう窓を閉めて回る。

 

ほんとうの希望ではないと知っているから希望と呼ぶのだ、彼は言っていた。

そのとおりだと思う。

名前は希望だ。

ときどき絶望だ。

 わたしはわたしの名の檻にわたしを閉じ込める。

 わたしの名を持たぬ者を、持たぬ者という檻に閉じ込める。

 

呼び合えるから、呼び合わずに見つけ合うすべを知ることをしない。

 

わたしたちはちいさな希望を実現していく。足のないひとに手を貸す。

わたしたちはおおきな希望を切り捨てていく。足のあるひとが列車から手を振る。

 

さようならと助けて、ひしめき合っている。

 

よく分からない。

 

環境のせいにしないということは、雨がグラウンドをぐしゃぐしゃにしたのではないというくらいの大雑把な判決で、すべてが環境のせいだと言うのも同じだ。

 

絵が安価であったならば、この世界はどんなふうだったろう。

色で思考し、形で伝え、筆が天井からぶら下がり、酸素マスクの中はカラーインクのボトルよろしく、海よりも海らしい青で満たされていたのだろうか。

詩が安全であったならば、ソネットが身ぐるみになり、音律が指示を出し、わたしたちは連と連とのはざまであるような空白を天国だと夢想したのだろうか。

 

大好きも大嫌いもない場所がある。

そこにはことばによる訳なく、ひきつけられる。魅力ではなく、引力がある。

わたしには、『スティル・ライフ』と『熊の敷石』が惑星だ。

謎も興味も感動もない荒廃に(小説とは、例外なく、閉鎖的・限定的である。完成された物語ほどその内圧は高い)、わたしは、よろよろ、引き寄せられて、頁をめくる。

そういう、わけのわからないものが、だれにとっても、たくさんあればいい、と思う。

ときには絵で、ときには詩で。

小説で、汗に見つけてもいいし、もちろん、他人を星と呼んでもいい。

世界は多様で、多様であることは破壊的でもある。わたしのように、自己防衛のために、ひとつのパズルをえんえんもてあそんでいるのも悪くない。壊れない程度に生きなければならないから。

一方、わけのわからなさ、というやつは、多様であればあるほど、あなたに優しいだろう。

間口を広げておいて、星々を生まれるままに受け入れて、ときどき、冒険に出よう。引力の所在は自由意志であるという顔をして、測量にかかろう。

測り切れない、安心を与えられよう。

それくらいの恩恵はもらってもいいくらい、わたしたち、たぶん、生きている。

生きているという安心を、だれかに与えている。

安心したら、また、歩き出そう。

 

そうは言っても、この大雨では、わたしよりも、大きな音が怖いあの子には、辛い通勤になるだろう。

あなたの窓を、わたしがわたしの窓を閉めるように閉めてやれたらいいのだけれど、それはできない。きまりなのだ。

わたしとあなたのあいだにある、たったひとつの(第三者による)決め事なのだ。

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