終りに

ことばについて考えるときことばを用いなければならないことは、大袈裟に言って、わたしには絶望だった。

だから絵が好きだった。

詩も短歌も、ことばを扱うが、1をいちと言わないことで表現するさかさまは優しくて、好きだ。小説もおなじ。

隠喩への信心はないのだが、ことばのもつ、どうしようもない美しさにも、もう、惚れていたのだと思う。

かと言って、ことばで遊ぶのは大嫌いだという偏屈ぶり。かわいげなく、くちびるをとがらせているのは、しかし、怖いからであった。

ことばの誤用は取り返しがつかない。

わたしは誤解されたくなかった。

他人という名のことば(フィルタ)を通して、わたしがわたしと知る者以外の存在へと書き換えられてしまうことを恐れていた。

ことばの魔法を使うという呪い。

わたしたちはことばから逃れられない、生まれた以上、生きている限り。

 

これがわたし。

これがわたしというフィクション。

わたしはあなたの身体に宿りたい。

あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。

伊藤 計劃

 

わたしたちは物語であるということ、記述はときに後追いになり、それでも足りないかもしれないこと。一見、限界にも思えるこれらの挫折は、わたしをことば以外でゆるすことになった。

 

ことばでは綴れないから、わたしは、わたしという物語で応えたい。

 

出会いたい、怖くても。

歩きたい、このさきへ。

どんなに魅力的で、絶対、正解で、わたしをゆるし、ぶちのめしても、それでもさきへ歩き続けたい。

見つけたものは失わない。

それはすでにわたしになった、所有ではなく存在に。

もう少し、欲張ろう。

自分を疑おう。

すべてと出会えた、なんて、そんなはずがないじゃないか。

これが結末、なんて、わたしには言えない。

 

いま、ここで、初めて、わたしたちは出会った。

見つけ合った。

エーテル。

ことば。

物語。

絵。

詩。

哲学。

いのち。

それはいったいなにだろう。

もしもあなたが、その答を見つけたならば、教えて。

わたしにも、ほんのすこしでいい、分けてほしい。

コメント

このブログの人気の投稿

***ベンチ

**世界中が工事中