イン・トゥ・ザ・ワイルド
わたしがいまここにいるということは、
わたしという領域は、わたし以外の領域が取り囲み、はじめて、
シモーヌ・ヴェイユには神(彼女の定義にのみ依存する)がいた、
Cには父がいた。
存在に対する存在として存在がわたしを存在させる。
それは奇跡とも言えるし、悪夢とも言える。
赤ん坊が無事に生まれて、でも両眼がないとわかったとき、
カトリーヌはボタンをはずして、ばってんで閉じた。 その目のおかげで、
熊はダヴィッドを庇護しつつ同時に庇護されているような両義性を 獲得していたのだった。 カトリーヌはぜんぶ言葉で説明してる。これは水、これは洋服、
これは熊さん。たぶん、光にだって言葉を与えてる。 堀江敏幸『熊の敷石』講談社文庫2004.2
両親の胸に抱かれた鏡に映るわたしが贈られる。目のないわたし/
往々にして、矯正や、
やがて、ひとは求めることを覚える。パラレルユニバース、
Cは捨てたかった。欲しくないものを所有していたくなかった。
物語から疎外された者として、やはり存在するかれらが、
それらは、おそらくすてきなこと、希望であるのだが、
わたしたちは手遅れの季節に生きており、
なにもかも、悲しみも苦しみも、痛みも、
わたしたちは生きているかぎりことばを手放せない。
捨てたように埋めて、見つけたように掘り出す。
捨てたいもの引きずり回してきた。父の存在も、
放棄することを手放して、歩くのを止め、歩きはじめる。
生活の中にその身をおくこと、“わたし”がやってみること。
欲求からあらゆる装飾がはがれる時、残る、ただひとつの渇望は、
愛情を絆で結ぶには、森に対するように、真摯に向かい、苦しみ、
もし僕が笑顔で胸に飛び込んだなら見てくれるだろうか
今僕が見ているものを
『イントゥ・ザ・ワイルド』2007
だれにでもあるわけではないチャンスはあった。
互いの存在を知っており、自分の領域によって、
それでもひとは求めてしまう。
あともう少し、いま、ここで、わたしを見てほしい。
わたしの目で。
真ん中に愛はある。周りは力が取り囲む。
わたしたちの想像は、想像するという行為の性質上、
忘れてはならないのは、想像が及ばぬものが存在している、
想像≒認知≒理解
だから、だれかに描かれたいと望むのは、謙虚すぎる。
たとえ、ほとんど不可能だとしても、
偽物でいいの、あなたでなくていいの。
ほんとうに。
帰還せよ。
すべての旅は帰還にある。
あなたのことばで語り継げ。
あなただけが、あなたに遅れをとっていない。
びっくりさせてあげよう。
わたしは旅に出たことがない。
これだけ、旅だとか世界だとか言っておいて、
ほんのひと筋の斜光、一瞬の関与にも、
生きることは、広義の自殺行為である。
真意はそこにあるのかもしれない。わたしではなくなる(
でも、それはいやなのだ。
その時でさえ、この目で見つめ、震える手、
支度していた荷を解いて、『足摺り水族館』を読んだ。
チケットがある、水族館がある、わたしがいまここにある、
いままで、なぜ、これだけのことが解らなかったのだろう。
いまなぜ解ったのか、それは知っていた。
時間というやつは曲者で、同一の全体としてありながら、
だから理解は、時間を原因としない。
時間がはじめから終り(言語が追い付かない領域)
わたしは旅に出ていた。
単位のために、パン屋さんのある、山深い無人駅に行った。
西の川では、中洲を見つけて、
陸橋の上は怖かった。毎日、毎夕、渡っても、
のち二日間が休日だという、勤務終りの真夜中、
すべて旅だった。
大冒険。
旅に出たのは、思い出せないくらい遠い以前で、それ以来、
チケットさえ取れば、だれでも旅に出られるんだよ、
わたしの手には、いま、一枚のチケットがある。
あるから、旅に出られる。
わたしがわたしのことを話す時、迂回したいポイントや、
“それがわたし”と言ってしまえば簡潔だが、
押しつけずに、ある遠い島で演ぜられた喜劇として、
映画が観られるほどの雨ではない日もある。
そんな日にかぎって、映画が観たい。
おとなりさんをよんできて
小野寺 悦子『おとなりさんをよんできて』学習研究社 1987
ケーキを焼こう。シフォンケーキがいい。
数日前、『フィニアスとファーブ』
Whatcha doin'?
『フィニアスとファーブ』2007-15
わたしは、知らないでいる選択をしてきた、いくつも。
いくつとは数えない苦しさと引き換えにして。
きょうはなにしてあそぶ?
あずま きよひこ『よつばと!12』電撃コミックス 2013.3
きょうは、このひと切れを、わたしたち、分け合いませんか。
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