イン・トゥ・ザ・ワイルド

わたしがいまここにいるということは、わたしがいまここにいなければありえない。では、わたしがいまここにいるということを確かめるすべはあっただろうか。見つかったか。

わたしという領域は、わたし以外の領域が取り囲み、はじめて、可能となる。

シモーヌ・ヴェイユには神(彼女の定義にのみ依存する)がいた、ネッロには社会、そして彼ら(『人生、ここにあり!』)。

Cには父がいた。

存在に対する存在として存在がわたしを存在させる。

それは奇跡とも言えるし、悪夢とも言える。

 

赤ん坊が無事に生まれて、でも両眼がないとわかったとき、カトリーヌはボタンをはずして、ばってんで閉じた。

その目のおかげで、熊はダヴィッドを庇護しつつ同時に庇護されているような両義性を獲得していたのだった。

カトリーヌはぜんぶ言葉で説明してる。これは水、これは洋服、これは熊さん。たぶん、光にだって言葉を与えてる。

堀江敏幸『熊の敷石』講談社文庫2004.2

 

両親の胸に抱かれた鏡に映るわたしが贈られる。目のないわたし/物があるわたし。よく磨かれた鏡には、歪みのない像が映り、わたしたちはそれを真実と呼ぶ。

往々にして、矯正や、スモッグのかけられた像が与えられる場合があるなか、彼らには真実があり、安心があった。いのちの生産を抜きにすれば、両親から我が子へ、最高の“提供”だろう。

やがて、ひとは求めることを覚える。パラレルユニバース、なにかが欲しい、なりたい、捨てたい。

Cは捨てたかった。欲しくないものを所有していたくなかった。探求ではなく欲求が、旅をはじめたのだ。

 

物語から疎外された者として、やはり存在するかれらが、遺された物語を引き継ぐことになる(『ディス/コネクト』2012)。こうして物語は、幾重にも、多様な様式、主観、言語によって織り込まれていく。

それらは、おそらくすてきなこと、希望であるのだが、引用が暴力であるように、輪の閉じた物語を引き継ぐこともまた、受ける側にはすさまじい暴力となる。

わたしたちは手遅れの季節に生きており、そのさびしさはけっして癒えない。

なにもかも、悲しみも苦しみも、痛みも、虚しささえも美しいと思えるときは、たしかにある。だが、常にではない。その境地に伴うべきことばもない。

わたしたちは生きているかぎりことばを手放せない。ことばなしでは、生きてはいかれないのだ。物語とはならない。

 

捨てたように埋めて、見つけたように掘り出す。燃やせば火になるだろう。形は無くなっても、存在は続く。

捨てたいもの引きずり回してきた。父の存在も、父に対して生じるわたしも、捨てられるものではないのだ。苦痛と同じく、生命の前提条件。彼らは出会ってしまっており、出会う以前には改編できない。

放棄することを手放して、歩くのを止め、歩きはじめる。

生活の中にその身をおくこと、“わたし”がやってみること。成し遂げる可能性ではなく、経験こそが望みなのだ。旅はいまここにある。

 

欲求からあらゆる装飾がはがれる時、残る、ただひとつの渇望は、ひたすら、親愛の情からきているのではないだろうか。

愛情を絆で結ぶには、森に対するように、真摯に向かい、苦しみ、打ちのめされ、よろこび、阻まれ、救われてなお、たえずこころみつづけなければならない。

もし僕が笑顔で胸に飛び込んだなら見てくれるだろうか

今僕が見ているものを

『イントゥ・ザ・ワイルド』2007

だれにでもあるわけではないチャンスはあった。彼は存在していた、一本の木として。父もあった、異なる一本の木として。

互いの存在を知っており、自分の領域によって、相手を存在させ続けてきた。それは愛だった。前提条件として、愛はあったのである。

それでもひとは求めてしまう。

あともう少し、いま、ここで、わたしを見てほしい。

わたしの目で。

 

真ん中に愛はある。周りは力が取り囲む。

わたしたちの想像は、想像するという行為の性質上、一歩遅れたものである。種を見つけて、芽を想像する。知らない色の夢は見られない。

忘れてはならないのは、想像が及ばぬものが存在している、ということである。とうてい信じられない渇望が存在し、ひとを生かし、死なせてもいく。

想像≒認知≒理解

 

だから、だれかに描かれたいと望むのは、謙虚すぎる。

たとえ、ほとんど不可能だとしても、わたしを記述できるのはわたしだけなのだ。

偽物でいいの、あなたでなくていいの。

ほんとうに。

 

帰還せよ。

すべての旅は帰還にある。

あなたのことばで語り継げ。

あなただけが、あなたに遅れをとっていない。

 

 

びっくりさせてあげよう。

わたしは旅に出たことがない。

これだけ、旅だとか世界だとか言っておいて、この世の摂理見破ったり、なんて顔をして、その実わたしはだれよりも“わたし”を囲って生きている。

ほんのひと筋の斜光、一瞬の関与にも、弱いわたしは壊れてしまうのではないか、心配して、おっかなびっくり、本を読み、読むのを止め、繰り返している。

生きることは、広義の自殺行為である。

真意はそこにあるのかもしれない。わたしではなくなる(領域を取り崩し、全体となる)ことに。

でも、それはいやなのだ。

その時でさえ、この目で見つめ、震える手、わたしのことばで綴りたい。

 

支度していた荷を解いて、『足摺り水族館』を読んだ。こんなふうに旅に出ればよいのか、と、いやにあっけなく、理解した。腑に落ちたのだ。

チケットがある、水族館がある、わたしがいまここにある、だから旅に出る。

いままで、なぜ、これだけのことが解らなかったのだろう。

いまなぜ解ったのか、それは知っていた。

時間というやつは曲者で、同一の全体としてありながら、分断した一瞬一瞬としてもある。

だから理解は、時間を原因としない。

時間がはじめから終り(言語が追い付かない領域)まであるように、理解もまた、いまあり、ずっとあり、これからもある。

 

わたしは旅に出ていた。

単位のために、パン屋さんのある、山深い無人駅に行った。あの日はひとりだった。

西の川では、中洲を見つけて、あの子の手を取って渡らなければならない、あの子はちょっぴり不器用で、わたしはちょっくら器用だから、なんてことを思って、わたしはこの手に持っていた傘を川に流した。手のひらが必要だった。

陸橋の上は怖かった。毎日、毎夕、渡っても、慣れることはなかった。わたしはいつだって、追い立てられていた。彼らは必ずわたしを見つけた、知っていた、放さなかった。

のち二日間が休日だという、勤務終りの真夜中、こっそり買い込んでいたラズベリーパンを食べた。クリームチーズが練り込まれた生地は白くて、もちもちしていて、血みたいに、ベリーが落ちていった。

すべて旅だった。

大冒険。

 

旅に出たのは、思い出せないくらい遠い以前で、それ以来、目の前に停まる列車に乗り込んだり、乗り過ごしたりしながら、わたしは向かっている。

 

チケットさえ取れば、だれでも旅に出られるんだよ、巣篭るわたしに、あの子は言った。

わたしの手には、いま、一枚のチケットがある。

あるから、旅に出られる。

 

わたしがわたしのことを話す時、迂回したいポイントや、通過するつもりだった公園で、思わく、遊びはじめたりするものだから、いささか、混沌としてくる。

“それがわたし”と言ってしまえば簡潔だが、できるだけのことはしたいのだ。

押しつけずに、ある遠い島で演ぜられた喜劇として、わたしを伝えるすべがきっとどこかにある、そう信じている。

 

映画が観られるほどの雨ではない日もある。

そんな日にかぎって、映画が観たい。

おとなりさんをよんできて

小野寺 悦子『おとなりさんをよんできて』学習研究社 1987

 ケーキを焼こう。シフォンケーキがいい。

 

数日前、『フィニアスとファーブ』のすごさに気がついてしまって、それ以来、やたら、どきどきしている。

 

Whatcha doin'

『フィニアスとファーブ』2007-15

 

わたしは、知らないでいる選択をしてきた、いくつも。

いくつとは数えない苦しさと引き換えにして。

 

 きょうはなにしてあそぶ?

あずま きよひこ『よつばと!12』電撃コミックス 2013.3

  

きょうは、このひと切れを、わたしたち、分け合いませんか。

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