下りのエスカレーターに乗っているときに、なにかがおかしい、とわかった。 たぶん、わたしはこれからなくなっていくのだろう。 わたしがわたしではなくなることに、今日のあの一瞬が生じ、あいまいにもわたしはそれに気がついたのだ。 認知したと言ってもいいかもしれない。おもえば、わたしはここしばらくのあいだ、とてもおだやかに生きていられた。 弱い目や耳をまもり、わたしがわかる(認知可能)わたしであることを選択できていた。ここまでなのかもしれない。わたしという存在は集合体だから、わたしが失われるとか、第二面に取って代わられる、干渉され埋没したわたしの外膜に意思決定権が移行するなどという表現はおかしいかもしれない。 どんなわたしでも、ここにいて、わたしが知るかぎりには、わたしであるしかないのだ。 もしも、突然まんめんの笑みを絶やさなくなっても、もしも、すう年来ことばを話していなかったはずが会話をもちかけても、どこかへ出掛け、明日のことを楽しみにしたり、怖いとかんじることをその通りに怖いと思っても、それもわたしなのだ。だけど、わたしはおとといまでのわたしがよかったな、とおもう。 いまになって、いろいろなものをもたないでいたわたしが、わたしにとっては易しく、あんぜんで、みちたりたわたしであったのだとわかった。もうすぐ、かもしれない。 あと五分後には、もうわたしはいないのかもしれない。 こうして、いままで話さなかったことばを話している時点で、もう転換は行われているということかもしれない。 五分後と五分前のちがいをわたしはしらない。 エスカレーターはきちんとわたしを一階へはこんだ。 それからは見る景色、聞こえる音、匂い、気配、すべてが、これまでの感覚との差異をそなえている。 なによりも、わたしとわたしが、やけにたくみに重なっているようなのだ。 重なりにあるミリ単位のずれが、肉体をとおくにかんじさせ、感覚をわたしという集合体から仲間はずれにしている。 だからまだ、わたしはなくなっていない、肉体をよりよく司るわたしに押し出されたけれど、まだここにいる、まだわたしはわたしだ、ということにしよう。 ︎6/3