*もしも蝶に問われたなら

わたしがなくなるということは、わたしにとっておかしなことであって、わたし以外の現実(もしもそのようなものが存在しているならば)にはさし障りないことだ。

わたしはいまもおだやかなきぶんでいる。とらわれたり、駆られたり、夢中になったりしていない。背中も手も、だれにも触れていないし触れられていない。
不当な人生だ、とはいちども思ったことがない。美点ではないとわかっているけれど、わたしが許せなかったのは自分自身だった。ひとや、社会を憎まない代わりに、さんざんわたしをなじってきた。

ごめんね、と言おうかな。
この年になるまで、わたしのことがわからず、歯がゆさについつい頭に無理をさせてきたこと、身体をニセモノのように扱ったこと、ないことにしたくて折り紙みたいにしわくちゃに丸めたり、ときには、折って、鶴にして、百万羽の最後尾に紛らわせたこと、ごめんね、謝るよ。
花にたいして、「蝶になりなさい」と言いつづけてきたようなものだ。しかも蝶のうち、よくとべるあざやかな羽色の蝶に変わりたかった。(もとの姿に戻りたい、とさえ思ったこともある)

いま苦しんでいるひとに、だれかの手が差し伸べられればいいとおもう。
転んで膝をむいているひとや、方向がわからなくなったひと、身体がいたいひと、こころが混乱しているひとに、たすけは必要だ。
基質と変質をとりちがえていたわたしが、ひとつ席を空ける。あたらしいわたしは歩くことを苦にしない。
休みたいひとが休んで、また歩き出せることを祈る。

わたしはいま、苦しくない。
つよがりでも、絶望でもない。
また、同時にこんなふうにもおもう。
九時間の労働のために、八十四時間の休みが必要な、一般からするとたいへん情けないわたしだが、これで充分よい。すばらしくはないかもしれないけれど、わたしにできることをさせてもらえる場所があるのだ。そしてわたしにはできているのだ。これ以上なにをのぞむ。
あかるい明日はないとしても、今日を精一杯生きている自分にこころは満たされている。このさきも、わたしにできる取り組みをひとつひとつつづけて生きていくことに、ふしぎと恐怖心はわかない。あかるくない、わかっている。だが、おかしくない。

 

ならばなぜ、ともしも蝶に問われなら、わたしはなにと答えればよいだろう。
いまも、かこも、理由ではない。未来も。
ならばなぜ。

だれもわるくないのだとわかってほしい。

きっと、だれもしらないとおもうけれど、わたしは、自分が最高の人生を送ったとおもっている。

もう冬はないのだと、ふいに気がついた。あの蝉にも、このタチアオイの花弁にも、つぎの冬はやってこない。

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