*世界はじつにシステム

ゾンビシステムを信頼します。

気がついたのは、ほんのつい最近のこと。
どうやら、わたしはすくわれていたらしい。

とてもおだやかなきぶんなのだ。
うまくことばにできないのだけれど、すっかりあんしんできた、とでも言えばよいだろうか。
やりとげた気がする。できることを精いっぱい。
そして、さいわいなことに、すばらしい結果を残せた、そんな気がするのだ。

きぶん、って、だいじなのだなあ。
そんなこともわたしはしらなかった。

わたしが守りたかったものはなんだったのだろう。
壊れてしまうことが怖かった。
なんども経験があるだけに、怖くて仕方がなかった。
わたしの枠がこわれ、すり替わるあたらしいわたしが、わたし以外の現実には適していて、誠実で、ありふれていて、見た目も、手触りもよいものだとしっている。
過去にわたしを生きたそれらは、学校へ通い、家庭で話をし、働き、友人と映画を観ることができた。

いまふりかえっても、そんな自分は魅力的だ。
ただしいわたしを羨ましがっておきながら、いやだ、わたしを乗っ取らないで、いまのわたしを壊してしまわないで、とおびえている。
ほんとうの唯一のうまれもったわたし、という幻想をもたないだけに、わたしとわたしの主導権あらそいは残酷だ。

わたし。
このわたし。
目と耳がよわいわたし。ほかぜんぶ、やっぱりよわいわたし。

もういないのだなあ。


よわいわたしはことばをもたない。ほかぜんぶ、所有しない。
いまのわたしは話しているし、この肉体や、環境や、意識を所有している。
すり替わったあたらしいわたしが、いまここにいる。
あんなにおそれていた崩壊は、どちらのわたしにも知らされないまま、はじまり、おわったのだ。

信仰も、支持も、わたしはもっていない。
たにんの定めた主義にもすがれないわたしは、だれに、このかなしみを伝えればよいのだろう。
ふたりのわたしがふるえている。
分断されてもなお、わたしたちはひとつのいのちを生きている。

考えもしなかったものを捨てながら、わたしのようなものは、このようなことを考えていた。

すくわれたのがどちらのわたしであるのかはわかっている。
残酷だ。
しかし、だからわたしだったのだ。わたしはなにも所有したくなかった。そしてそれは、叶えられた。

覚悟していないことからはじめ、ふたつにひとつの道をえらぶ。そうしてようやくわたしは歩きだした、この春のことである。
世界はじつにシステム。

あつあつご飯にのせたかつぶし
みたいな踊りを踊りつづける

猫に見つかっちゃだめ!

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