**ひそひそ/平均の原理

いつまでたっても、食べるという記憶が手に入らない。
欲しい。

食べている最中ですら、自分が食べていることをわからない。つねに結果しか見つからない。
目の前のお皿はこくこくと柄をだすし、胃はへんに空気を食べてしまって軋んでいる。おいしいはずなのだ、幸福なはずなのだ。
それなのにわたしは食べることをしらない。記憶にもない。想像しかできなくて、すぎると、反動が箸を止めてしまう。
不器用なせいだとおもっていたのだが、そうでもないかもしれないな、とおもい至った。
わたしはたまたま食べることに拘っているが、もしかすると、ほかのこともおなじかもしれない。
わたしは歩くが、歩く意識はあるだろうか。
目は改行にしたがうが、そうしたいと思ってのことか。
指がことばをつなぐが、これはわたしのことばだろうか。
行為の記憶はあるか。
ほんとうに、思い出せるのか。
ない気がする。
わたしのアクセス可能な領域に、それらの記憶はおさめられていないらしい。

これまでも、いろいろなことを見すごしてきたのかもしれない。
それさえも、しらなかっただけで。


わたしがしらないことを、しっている身体へ。
あなたがかんじられない幸福を、わたしが、遅れて、やや創作してだが、噛みしめてあげる。
もちろん美味しい。歩き疲れた。今日はここまで。(入力)こっちもここまで。(出力)

それでも、欲しいきもちは変わらない。

*︎

貯蔵と廃棄はもちろんちがう。
しかしうまく言いあらわせられなくて、はがゆいな。
ばん。
というやつがまたあったのだ。わたしがなにかに追いついた。

ほんとうに捨てられないものなど、たぶんない。物だもの。そもそも、いつかは無かったのだ。いまあるというだけだ。所有しているきぶんは、ちょっと理屈に合わないかもね。

ばん。

電卓のことだ。

高かったし、必要な物だったから、わたしは電卓を、わたしの延長のようにして、好きなだけ酷使してきた。
気に入っていたのはたしかだ。いまは使っていないが、それでも、捨てることなど考えたこともない。
だって、今日や明日にでも、なにか、計算しなきゃいけないかもしれないじゃない。なにかがなになのかはわからないけれど。
右腕を捨てようかな、なんて考えることがないように、電卓はとくべつ枠として存在していて、どうもこうもしようなどとは考えたことがなかったのだ。

見て、ばん。
あ、わたし、電卓を捨てられないかもしれない、気がついた。
ただの物なのにほかと区別している自分を信じられないきぶんと、友だちでも殺すみたいなとんでもない倫理違反だという動揺が、わなわな、わたしをゆさぶる。
だけど、もう要らないではないか。計算しなければならない現実は、もうないのだ。これからもないのだ。

いろいろな感覚が、ひそひそと話し合っている。

じつは、結論は先延ばしにした。

かんかんのなかには入らないけれど、最終便で廃棄するまでは、電卓はここにある。
わたしの延長はいさぎよく沈黙をつらぬく。

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