*こころがたどりついた場所
ひとは変わる、とても不真面目な言い方なのだけれど、
怖かったことが気にならなくなったり、
さいきん、外にいるからだろうか。
なんどか、見知った顔とすれちがったからだろうか。
幼いころの、どころか、
子どもといういのちの責任などとうてい負えないとおもっていた。
わたしは両親をふかく尊敬している。
そんな両親でさえ、このような子ども(わたし)
(むじゅんだが、
わたし以上の結果を、わたしにはのぞめない。
人間のいのちの責任を、わたしはおえそうにない。
そうおもっていたのだが、ふいに、
ひつようなものはない。
ふたりがなかよく暮らせたらそれでいい。
わたしは、勲章どころか、注意書がつく人間だが、
あんがい、対極ではなく、
ちいさな部屋で、ふたりが暮らす。
ふたりとも働く。
といっても、わたしはじゅうぶんには働けないだろう。
申し訳ないなとおもう、それはやっぱり思いますよ。
ご飯だけはちゃんと食べる。
ふたりとも食べる。
生活をしていく。
もしもふたりが望み、叶うことがあれば、子どもをもつことも、
その子には、どんなものも満足に与えてやれないだろう。知識も、
とおくにでかけることも、映画を毎月観ることも、
丈夫なリュックを背負わしてやりたいとおもいながら、
でもそれは、不幸なことじゃない。
それが不幸なのではない。
おいしいねって言いあえて、
ひとりが話せなくなったり、動けなくなったり、
おとうさん、おかあさん。
これがわたしたちのものがたり。
そしてこれが、
この子のものがたり。
わたしのこころがたどりついた場所が、
ひとより、なんねんもなんねんも遅れて歩いてきたわたしがいま、
いろんなことをゆるせている。
たとえばわたしのこんな白昼夢のことさえも、罪におもわずに、
みて。
わたしのこころがたどりついた、信じられないはずの、
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