*こころがたどりついた場所

ひとは変わる、とても不真面目な言い方なのだけれど、感覚はこのとおりだろう。
怖かったことが気にならなくなったり、見えなかったものがいまは見えて、気に入ったり、やっぱり怖くおもえたりもする。

さいきん、外にいるからだろうか。
なんどか、見知った顔とすれちがったからだろうか。

幼いころの、どころか、一年前のわたしが聞いても信じられないだろうけれど、いま、わたしは将来のことを考えている。


子どもといういのちの責任などとうてい負えないとおもっていた。自分のいのちでさえもてあましているし、こころから愛している友だちとさえ付き合えないわたしが、だれかと一緒になり、子どもを授かり、生活をしていく、なんて想像したこともなかった。

わたしは両親をふかく尊敬している。わたしではないひとからみても、ふたりはじゅうぶんにすばらしい両親だ、ときっと言うと思う。
そんな両親でさえ、このような子ども(わたし)しか育てられなかったのだ。人間は、にんじんの栽培よりもむずかしいらしい。
(むじゅんだが、わたしの原因はそれでもわたしにしかないと確信している)

わたし以上の結果を、わたしにはのぞめない。
人間のいのちの責任を、わたしはおえそうにない。

そうおもっていたのだが、ふいに、やすらかなきぶんがやってきて、わたしはすこしまえから、将来のことを考えている。

ひつようなものはない。
ふたりがなかよく暮らせたらそれでいい。

わたしは、勲章どころか、注意書がつく人間だが、手前味噌ながら、やさしさが生まれながらにそなわっている。みんなの基準くらいにがんばることはできないが、不真面目には一瞬だってなれない。できることをいちいちしていく。

あんがい、対極ではなく、わたしにすこし似ているひとかもしれない。

ちいさな部屋で、ふたりが暮らす。
ふたりとも働く。
といっても、わたしはじゅうぶんには働けないだろう。
申し訳ないなとおもう、それはやっぱり思いますよ。

ご飯だけはちゃんと食べる。
ふたりとも食べる。

生活をしていく。

もしもふたりが望み、叶うことがあれば、子どもをもつことも、なんにもおかしいことじゃない気がする。
その子には、どんなものも満足に与えてやれないだろう。知識も、希望も、あるだけぜんぶ与えるが、足りることはないだろう。
とおくにでかけることも、映画を毎月観ることも、壁紙を張り替えることもないだろう。
丈夫なリュックを背負わしてやりたいとおもいながら、じっさいには、家族三人で手提げやら、肩掛けやらをふうふう言いながら持って生きるしかないかもしれない。

でもそれは、不幸なことじゃない。
それが不幸なのではない。

おいしいねって言いあえて、明日はどんなお天気だろうねって身を寄せ合って、もしかしたら世界がぐるりと変わって、十年後のわたしたちは、それぞれのあたまにいっぴきずつ、好きな色のくじらを棲まわせているかもしれないね、なんて笑いあえたらいい。
ひとりが話せなくなったり、動けなくなったり、目が見えなくなっても、悲しまないで、いまがそのときであるだけ、心配はいらない、と思えたならば、それ以上のことはない。

おとうさん、おかあさん。
これがわたしたちのものがたり。
そしてこれが、
この子のものがたり。

わたしのこころがたどりついた場所が、どんなにすてきな場所なのかは、きっとわたしにしかわからない。
ひとより、なんねんもなんねんも遅れて歩いてきたわたしがいま、こんなにもやわらかな将来のことを考えている。

いろんなことをゆるせている。

たとえばわたしのこんな白昼夢のことさえも、罪におもわずに、かさこそ、あたまのすみっこで暮らさせてやっている。

みて。
わたしのこころがたどりついた、信じられないはずの、ありふれ希望を、みて。

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