**桜の花びら/夏のプロパガンダ

むかしは、生活の音がきらいだった。

生活がなにかもわかっていなかったし、わかってやしないのだけれど、すくなくともいまは、わたしなりに触れられる生活の輪郭があって、そこからもれでる音に、きぶんは傷つかない。

真夜中の洗濯機が回っている。
ちいさな窓からは、とおい通り沿いの家の、ちいさな窓が、だいだいに光ってみえる。

煙草とペンキの匂いは、かきねを梳く。

あさは、咳をするひとがいる。
車椅子の回転はゆるやかにつづく。
先週と先々週末、歌っていたとはちがう歌を、あの子は練習している。
歌手になるのかな。
下手だなって、しょうじきおもってたんだけれど、聴き慣れたのだな、いまはすきだよ。
しらない歌。

本をひらく。
頁をめくる。
しおりは挟まない。
忘れちゃいけないよって、おもいたいから。

このごろ、他人のことばばかりが、頭のなかであったかくなる。
わたしはなにかを言いたかったり、伝えたかったり、しないのかもしれない。
自覚はなかったけれど、事実がそうなのかもしれない。
ただ、名残り惜しくて、話すふりをしたりして、できることは精いっぱいやったんだとおもいたくて、歌を歌うみたいに、言葉を選んでいる。
しぜんに。

引用がわたしを作ったのならば、どんなに、しあわせなことだろう。
こんな、夢みたいな、わたしのいないわたしは、一過性のうちの、ほんの一面だ。
多角形のわたしはたえず、転回する。

この夢が覚めたら、また、あたらしいわたしだ。

どうしても泣きたい、そうおもって、ぎゅうぎゅう、枠をにぎる。
涙を待っている。

まひる、灰色のネコが、昨日までそうではなかった耳を、桜の花びらにして、ゆらしていた。
しあわせかい。
きみや、きみたちは、しあわせなのかい。

ふしあわせのない世界でも、きみはしあわせになれたのか。

夏のプロパガンダをもろともせず、
あるいは、
かんたんに受け容れて、
ネコたちは、水をさがしにいく。

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