6/28

グレッグ・イーガンのことはしらないままでしんでゆこうとおもう

時間があっても、肉体と思考がなければ行為はうまれない。
ひとは、機能の低下によって、さまざまな選択を手放すことになる。
読めない本を積む、行きたかった場所のリストを増やす。
「いつか」はない。
選択肢こそが時間である。

かんがえているのは、はんたいのことだ。
ひとが、肉体と思考を手放したあと、のこるものはなにだろう。
「時間」なのではないかとおもえて、ひとり、苦笑するはめになる。
かれこれ三日ほど、笑いっぱなしである。

現実はわたしにしかない、とつねに考えているはずが、時間は現実の外側にあるとおもいたいらしい。
わたしは、しかし、時間のことは、これまで考えてこなかった。
知ろうともしてこなかった。
そしていま、はたして、「時間」は、どこにあるのだろうか、と考えているわけだ。

知らないことをかんがえるのは愉しい。
これ以上の自慰はない。

時間はどこにあるのか。
いや。
いつあるのか。

親不孝だからだろう。
火がある、という気がしている。
肉体と思考が欠落したあとには、時間があり、
時間とは火で、そこで消失した”わたし”なるものが焼かれるのだ。
えいえんに。

地獄はここにある。と彼は言ったが、
わたしはまだそれを、見つけられずにいる。

知ることは快楽だが、知らないことは救済だ。
この街。
美術館のない街、海がある街。
峠がある街、そこでひとがよく死ぬ街。

わたしは死にたいひとではない。
死にたい死にたいとおもいながら生きていくのは、つらいだろうな、と想像する。

想像とは、くだらない方の自慰だなあ。

生きたい生きたいとおもいながら死んでゆくのも、そこそこつらい。

比較と呼ばれる自慰を、わたしはゆるさない。

エフエフが好きだが、グレッグ・イーガンをいまだ、一冊も読んだことがない。
たぶん、「エフエフが好き」なんて言ってはいけない、と怒られても、わたしはちろりと舌をだし、首をちょこっとすぼめることしかできないだろう。

知れば、どきどきするだろうな。
世界はね、こうして拡がっていくんだ。
知ることだけが、あなたになる。
いちど拡がりはじめた境界は、こぼれた水のように、あなたの監視はなくとも拡がりつづけるのだ。
止まるよ、水のかぎり、いずれは。
でもそのときまでに、わたしたちは、つぎのどきどきを見つけてしまうのだ。
生きていくことは、どきどきすること。
悲しみにもよろこびにも、どきどき、しっぱなしの肉体と、思考と、時間だ。

6/28

コメント

このブログの人気の投稿

4月

*見える

5170