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グレッグ・イーガンのことはしらないままでしんでゆこうとおもう
*
時間があっても、肉体と思考がなければ行為はうまれない。
ひとは、機能の低下によって、
読めない本を積む、行きたかった場所のリストを増やす。
「いつか」はない。
選択肢こそが時間である。
かんがえているのは、はんたいのことだ。
ひとが、肉体と思考を手放したあと、のこるものはなにだろう。
「時間」なのではないかとおもえて、ひとり、
かれこれ三日ほど、笑いっぱなしである。
現実はわたしにしかない、とつねに考えているはずが、
わたしは、しかし、時間のことは、これまで考えてこなかった。
知ろうともしてこなかった。
そしていま、はたして、「時間」は、どこにあるのだろうか、
知らないことをかんがえるのは愉しい。
これ以上の自慰はない。
時間はどこにあるのか。
いや。
いつあるのか。
*
親不孝だからだろう。
火がある、という気がしている。
肉体と思考が欠落したあとには、時間があり、
時間とは火で、そこで消失した”わたし”
えいえんに。
地獄はここにある。と彼は言ったが、
わたしはまだそれを、見つけられずにいる。
*
知ることは快楽だが、知らないことは救済だ。
この街。
美術館のない街、海がある街。
峠がある街、そこでひとがよく死ぬ街。
わたしは死にたいひとではない。
死にたい死にたいとおもいながら生きていくのは、
想像とは、くだらない方の自慰だなあ。
生きたい生きたいとおもいながら死んでゆくのも、
比較と呼ばれる自慰を、わたしはゆるさない。
*
エフエフが好きだが、グレッグ・イーガンをいまだ、
たぶん、「エフエフが好き」なんて言ってはいけない、
知れば、どきどきするだろうな。
世界はね、こうして拡がっていくんだ。
知ることだけが、あなたになる。
いちど拡がりはじめた境界は、こぼれた水のように、
止まるよ、水のかぎり、いずれは。
でもそのときまでに、わたしたちは、
生きていくことは、どきどきすること。
悲しみにもよろこびにも、どきどき、しっぱなしの肉体と、
*
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